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維摩経を読むその二:仏国土の清浄について


維摩経の序章としての第一章は、仏国土の清浄について説く。仏国土は本来清浄なものであるが、それが不浄に見えるのは、見る者の側に問題があるのであって、仏国土に問題があるのではない。仏国土自体は清浄なのである。だからその本来の姿を見るように衆生を教導するのが大事なのであるが、それを行うのが菩薩の使命である。そう言って菩薩のあるべき姿について説くのである。それゆえこの部分は、仏国土の本来の姿と、それを衆生に教導すべき菩薩の心得について説いたものだといってよい。仏国土が何かについては、それは衆生そのものに他ならないといわれる。だから仏国土の清浄とは、衆生の清浄ということを意味する。衆生は本来、清浄なものなのである。

お経は冒頭の部分で、お経全体の状況設定を行う。それはヴァイシャーリーの町の郊外にあるアームラパーリーの園林において、世尊(仏陀)が大勢の弟子や帰依する者たちに囲まれ、それらの者を相手に説法を行うというものである。世尊を囲んでいるものは、八千の阿羅漢、三万二千の菩薩、シキン梵王以下一万のブラフマー神、一万二千のシャクラ(インドラ神)、その多大勢の護世神、天、竜、ヤクシャ、ガンダルヴァ、アスラ、ガルダ、キンナラ、マホーガラなどである。このうち菩薩は大乗の修行者であるが、阿羅漢は小乗の修行者であり、ブラフマー神以下は異教のものたちである。

世尊を囲む者のうち、菩薩は大乗の修行者であるから、それについてことこまかに言及される。菩薩は修業によって如来に近い境地に至っているが、いまだ如来には及ばない者として描かれている。例えば、「十種のパーラミターによって完成し、真の存在は知覚を超越して、本来不生であるという忍(明らかな確信)を有し、不退転の法輪を転じ」ていることは如来と同様だが、それらは確信であって、実現されたものではない。したがって菩薩は、「十種の力、四種の畏れなきこと、十八種の仏陀に特有の性格に対して深い決意」を抱くものとして説かれるのである。なお、「真の存在は知覚を超越し」云々は、般若経の根本思想「空」について述べたものである。

世尊が大勢のものを前にして説法を始めると、リッチャヴィー族の青年で宝蔵と呼ばれる菩薩が、五百人ほどの若者とともに、七種の宝で飾られた傘蓋を持ってあらわれ、それらの傘蓋を世尊に奉ると、世尊はそれらを一つの大きな傘蓋にせられ、それで以て三千大千世界を包み込んだ。三千大千世界とは、我々の生きている宇宙を一つの世界とし、それを千集めたものを小千世界、小千世界を千集めたものを中千世界、中千世界を千集めたものを大千世界としたうえで、それをすべて集めたもの、つまり千の三乗の数の世界という意味だが、要するに数えきれないほどの数の世界というような意味である。インド人特有の世界観が反映した言葉であろう。

宝蔵菩薩は、世尊の大神通力を目にして、右の膝を地につけ、世尊のおられるほうに向かって合掌し、詩頌を以て世尊をほめたたえた。この詩頌は鳩摩羅什訳の漢訳でもっとも有名な部分で、お経としてよく読まれる。誉め言葉を並べたものが大部分を占めるが、中には仏教の根本思想を述べたものもある。たとえば、「世界は存在するものでもなく、存在しないものでもなく、(しかも現に存在する)諸法はすべてなんらかの因によっておこっている。そこにはわれもなく、感受者も行為者も(実体として)あるのではない」というような部分である。「世界は存在するものでもなく、存在しないものでもない」というのは、世界について合理的には説明できないという意味であり、「諸法は因によっておこっている」とは、すべての存在は相対的な因果のうちにあるという意味であり、「我はない」というのは、一切空の思想を簡略化された形で述べたものである。

また世尊をほめたたえる言葉のうちもっとも核心的なものは次の言葉である。「もはや輪廻の道にはとどまっていないあなたに敬礼する。たとえ世間の人々とともに歩み、ともに会おうとも、心は(世間的な)あり方からはすべて解脱している。あなたは水にはえた浄らかな蓮華が、水に汚されることのないように、賢者という蓮華は、(泥を抜け出て)空性(の平等観)を実践する」

宝蔵菩薩はついで、仏国土を浄めるというのはどういう意味かと世尊に聞く。それに応えて世尊は、仏国土を浄めるということについて説くのである。世尊は言う、「衆生という国土こそ、実は菩薩の仏国土なのである」と。ほかならぬ菩薩たちが現に生きているこの世界こそが仏国土であり、この世界以外の所にあるわけではないと言うのである。その世界を正しく教え導くことこそ、菩薩の役割というわけである。「仏国土は(衆生を抜きにして)空中にはつくられるはずもなく、飾られるはずもないのである」

その仏国土で肝心なことは、布施であり、忍耐であり、精進努力であり、禅定であり、四無量心であり、四摂事であり、三十七種であり、回向であり、説法であると述べられる。この中で三十七種とは、四念処、四正勤、四神足、五根、五力、七覚支、八正道の種々の修行を体系化したもの。

そうした仏国土を清浄にするためには、菩薩自身が清浄でなければならない。「どのように菩薩の心が浄らかであるかに従って、仏国土の清浄があるからである」。そう世尊が述べると、仏弟子のシャーリプトラに次のような考えが生じた。「もし清浄であるに従って、そのように菩薩の仏国土が浄らかになるのであれば、釈迦牟尼世尊は、菩薩の行を行じたのであるから、その心が不浄であるなどということがあろうか。それなのにどうして、仏国土がこのように不浄なものとして見えるのであろうか」

それに対して世尊は、月や日を盲人が見えないのは、月や日のせいではなく、盲人のせいなのだと同じように、「シャーリプトラよ、如来の仏国土は清浄であるにかかわらず、お前がそれを見ないのである」と叱責する。その上で、「すべての衆生に対して心が平等であり、仏陀の智に対する意欲が浄らかである者には、この仏国土が清浄なものとして映るのです」と言う。そうして、「シャーリプトラよ、この仏国土はいつもこのようであるのだが、低劣な衆生を次第に成熟させていくために、如来は、この仏国土にこんなに多くの欠陥や不完全さがあるように見せるのである」と教えるのである。

この言葉を言い終えて、世尊が傘蓋による神変を収めると、仏国土はまた以前の状態にもどった。それを見た大勢の者らは、無上のさとりに向って発心したのである。

以上、序章である第一章は、仏国土の清浄を説きながら、なにがどのように清浄なのか、またそれを成就するためには、菩薩にはなにが求められているのか、について説くのである。この部分は漢訳においては、仏国品と題されている。



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