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維摩経を読む


維摩経は般若経の思想を一層深めたものである。おそらく般若経の成立から程ない頃に、般若経の思想をより一層明確なものにするために作られたものであろう。般若経の思想は空という言葉に要約され、それを独特のロジック(鈴木大拙のいう即非の論理)で展開したものだったが、維摩経はその空の思想を、更に深めた形で展開した。また、般若経における大乗思想も一層深められた。それは仏国土の概念において顕著である。仏国土とは、現世とは異なったところにある理想的な場所などではなく、現世がそのまま仏国土なのだとし、その仏国土に生きている衆生が、修業をすることで菩薩となり、ほかの衆生をさとりに向けて教導すべきだということを強調するのである。

般若経を代表する金剛般若経と比べると、金剛般若経が高度に抽象的であり、したがって思弁的な色合いが強いのに対して、維摩経は非常に具体的で、しかもわかりやすい言葉で語られている。そのため物語を読んでいるような気にさせられる。人々はその物語を読みながら、知らずしらずのうちに、大乗仏教の思想を身に着けていくという具合になっているのである。

維摩経の維摩は正式には維摩詰といい、サンスクリット語の名称ヴィマラキールティの漢訳である。音訳であるから、特段の意味はない。お経全体は、このヴィマラキールティという名の人物を中心にして展開される。大部分は、ヴィマラキールティと世尊、あるいは菩薩たちとの対話からなる。そうした対話を通じて、大乗仏教の基本的な思想が語られるのである。そういう点では、現代の読者は、プラトンの対話篇に通じるものを、このお経に見いだすに違いない。金剛般若経では、仏陀が須菩提に向ってほぼ一方的に説教するのであるが、維摩経にあっては、対話者は平等な立場で意見を述べ合うので、そこに読者は知的な興奮を覚えることができる。

物語としての維摩経は、三つの場面からなる。第一は、ヴァイシャーリーの町の郊外にあるアームラパーリーの園林。そこに世尊が大勢の弟子たちとともにいて、弟子たちに讃えられながら、ヴィマラキールティの病気を気遣う。アームラパーリーとは遊女の名前だとされるが、この経の中ではその遊女は出てこない。

第二は、ヴァイシャーリーの町の中にあるヴィマラキールティの邸。そこで世尊によって派遣されたマンジュシュリー(文殊菩薩)がヴマラキールティとの間で対話を行う。その対話の内容が、このお経の主な部分を占めるのである。しかも空の思想を始め、大乗の思想が詳細に展開される。その空の思想は、抽象的な言葉で語られるだけではない。ヴィマラキールティはマンジュシュリーやほかの菩薩たちを迎えるにあたって、自分の邸を一切空っぽにして、あたかも何もない空間で迎えるのであるが、それは空の思想を視覚的にあらわすものとなっているのである。

第三は、再びアームラパーリーの園林にもどり、そこでマイトレーヤ(弥勒菩薩)が釈迦のあとにこの世界に出現する如来として紹介される。

このお経には、文殊菩薩や弥勒菩薩はじめ多くの菩薩が出て来る。菩薩とは、大乗仏教に特徴的な人物像で、さとりに向って修行するもののことをさすが、それのみならず、ほかの衆生をさとりにむけて教導するものという意義を持たされている。小乗仏教の目指すところは、個人として悟りを開くことで、その境地に達したものを阿羅漢といったが、大乗仏教においては、さとりは個人的なものにとどまってはならず、他の衆生の救済を目指すものでなければならぬとされる。そこが大乗思想のポイントで、菩薩はそうしたポイントを体現するものとして、重要な役割を帯びているわけである。このお経は、そうした菩薩像を具体的に示したもので、後の大乗経典の模範となった。

このお経にはまた、我々の住むこの世界(釈迦の仏国土と言われる)のほかに、ガンジス川の砂の数ほど多くの仏国土があると紹介される。大乗仏教が考える宇宙とは、我々の住んでいる地球を中心とした仏国土にとどまらず、無数の仏国土から成り立っているのである。そうした仏国土の一つとして、このお経は妙喜世界とそこの主催者たるアクショービャ如来(無動如来)を紹介している。ヴィマラキールティは、その妙喜世界の様子を、自分の手のひらに再現させて、訪問者たちに見せてやるのである。

そのヴィマラキールティは、お経の始めのところでは、世俗の人ということになっているが、そのうち世尊から菩薩の一人として紹介されるようになる。それは、菩薩とは特別の、すなわち人間を超越した存在ではなく、人間がそのままになるものだということを、教えたいがためだと思われる。人間は誰でも、修業を通じて菩薩になれる、というのがこのお経の基本的な教えなのである。

このお経には、菩薩と呼ばれず長老とか弟子と呼ばれる者も出て来る。そうした者の中には阿羅漢と呼ばれる者も含まれる。長老の中でもっとも敬意を表されているのはアーナンダであるが、これは小乗仏教でも釈迦の第一の高弟として尊崇されている人物である。だがその高弟であるアーナンダも菩薩とは呼ばれていない。ほかに重要な役割を果たす弟子として、何人かの人物が出て来る。シャーリプトラ(舎利弗)はその一人で、般若心経では釈迦の説法相手として重要な役割を果たしていたが、このお経の中では、いささか滑稽な役割を持たされている。椅子の心配をして、ヴィマラキールティから、あなたは椅子の心配をしに来たのか、それとも教えを聞きに来たのかと揶揄されたりするのである。

以上のような状況設定のもとで、このお経は展開していく。その展開を通じて示される大乗仏教の教えを、今後読み解いていきたいと思う。テクストに使ったのは、中公版「世界の名著2大乗仏典」所収のもの。これはサンスクリット語原典からのチベット語訳を、仏教学者の長尾雅人が現代日本語に編訳したものである。維摩経の漢訳としては、鳩摩羅什のものが有名だが、このチベット語訳は経典の内容をほぼ逐語的に忠実に訳しているということである。



維摩経を読むその二:仏国土の清浄について
維摩経を読むその三:ヴィマラキールティとは何者か
維摩経を読むその四:菩薩たちとヴィマラキールティの対話
維摩経を読むその五:文殊菩薩とヴィマラキールティの対話
維摩経を読むその六:天女と如来の家系
維摩経を読むその七:不二の法門
維摩経を読むその八:世尊とヴィマラキールティの対話


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