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金剛般若経を読むその四:如来について


第十七節以降は、それまでの部分(前半)で説かれたことの繰り返しがほとんどであり、また、前半に見られた論理的な(形式論理から見た)矛盾が一層強まっているように思われる。そこで、節ごとに一々詳細に言及するのではなく、特に目をひく部分を取りあげたい。

まず、第十七節。ここでは「如来とは、すなわち、諸法は如なりとの義」という言葉が出て来るが、その意味は、如来とは真如のことである、ということだ。真如というのは、真実の異名といってよい。あるいは世界の根本のあり方といってもよい。要するに如来自身が真実なのである。

上の言葉に続いて、「法として、仏の阿耨多羅三藐三菩提を得ると言う如きもの有ること無し。須菩提よ、如来の得るところの阿耨多羅三藐三菩提は、この中において、実もなく、虚もなし。この故に、一切の法は、皆これ仏法なりと説けるなり」という言葉が出て来るが、これは前半でも出てきた言葉である。しかしその意味合いは、上の言葉を前提とすると、多少ニュアンスが異なっている。上の言葉では、如来とはそれ自身が真実だと言っているわけであるから、その如来が、その真実を言葉として知ることはないというような意味を持たされているのである。

第十七節のこの部分については、漢訳は以上のとおりなのだが、サンスクリット原典では、プラスアルファがある。「スプーティよ、如来というのは、生ずることはないという存在の本質の異名なのだ。スプーティよ、如来というのは、これは、存在の断絶の異名なのだ。スプーティよ、如来というのは、これは、究極的に不生であるということなのだ。それはなぜかというと、スプーティよ、生ずることがないというのが最高の真理であるから」というものだ。如来を真如といいかえれば、真如とは生起することなく、現象界を超越しているという意味になる。こういうことで、真如が人間の分別知識を超越したものだと言っているわけである。

第十八節。「そこばくの国土の中のあらゆる衆生の若干種の心を、如来はことごとく知る。何を以ての故に。如来は、もろもろの心を説きて、皆非心となせばなり。これを名づけて心となす。ゆえはいかに。須菩提よ、過去心も不可得、現在心も不可得、未来心も不可得なればなり」。心が非心、つまり心でないから、心なのである、という論理は即非の論理であるが、これによって何が言いたいのか。おそらく心の本質は、人間の分別知ではとらえることができない。本物の心は、分別知を超えたところにある、と言いたいのであろう。後段の過去心云々は、人間の心の現象的なあり方を指すのだと思う。そうした現象的なあり方を超えた所に、本当の心はある、ということだろう。

第二十一節。「もし、人、如来には説く所の法ありといわば、すなわち、仏を謗ることなればなり。わが説く所を解すること能わざる故なり。須菩提よ、法を説くというも、法として説くべきもの無ければなり。これを法を説くというなり」。これもわかりにくい理屈だが、おそらくは、言葉として表明できるようなものには、真実はないと言いたいのであろう。真実は言葉を超えた所にあるというわけであろう。

第二十五節。「須菩提よ、もし、三十二相を以て如来を観るというならば、転輪聖王も、すなわち、これ、如来ならん」。これも前半で出てきた言葉。如来を外面的な特徴で見てはならないという意味だ。転輪聖王も三十二相を持つといわれる。三十二相を如来の特徴だとすれば、転輪聖王も如来だという理屈である。

第二十六節。「その時に世尊は偈を説いて言いたまう、もし色を以てわれを見、音声を以てわれを求むるときは、この人は邪道を行ずるもの、如来を見ること能わざるなり」。これも三十二相同様、形によって如来を観てはならないと戒めたもの。サンスクリット原文には、如来は法によって見られねばならないと書かれている。そこから如来を法身とする思想が出て来るのである。

第二十九節。「もし、人有りて、如来は、もしは来り、もしは去り、もしは坐し、もしは臥すといわば、この人は、わが説く所の義を解せざるなり。何を以ての故に。如来は、従来する所も無く、また去る所も無きが故に、如来と名づくればなり」。如来とはどこへも去らないし、どこからも来ない。去来するものは現象であって、真如である如来は現象を超越していると言いたいのであろう。

第三十節。「須菩提よ、一合相は、すなわち、これ、説くべからず。ただし、凡夫は、そのことに貪著するなり」。一合相とは、すべてを一つの全体とみなし、それを実体とすること。それに貪著するとは、自分の生きている世界に執着するという意味である。

最後の第三十二節では、現象界の空しいことを説いた次のような偈で、経典の全体が締めくくられる。「一切の有為法は、夢・幻・泡・影の如く、露の如く、また、雷の如し。まさにかくの如き観を作すべし」。有為法とはつくられたもの、あるいはすべての現象界をいう。現象界は夢や幻のようにはかないもとと知るべきだというのが、この経典がまさに言わんとしたことで、それが空の思想につながるわけである。空とは、繰り返して言えば、ものに実体を見ないことであり、自我を含めたあらゆる存在は虚妄だと断ずる思想である。もっとも金剛般若経がこの空という言葉を一切使っていないことは、既に述べたとおりである。



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