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金剛般若経を読むその二:聖者について


第六節から第九節にかけては、求道者の心掛けるべきことについて説かれる。まず六節では、仏陀の教えを説いた経典は、仏陀の死後五百年たっても、その功徳を失わないということが説かれる。そのような時代にも、「戒を持し、福を修むる者ありて、この章句において、よく信心を生じ、これを以て実なりとなさん」。仏陀はそうした者たちのことをよく理解している。かれらがそうした福徳を得るのは、「我相・人相・衆生相・寿相無く、法相もなく、また非法相も」ないからである。ここで法相もなく、非法相もないというのは、「思うということも、思わないということもない」という意味。

もしものという思いが心に生じれば、その人には、自我等々への執着が生じることになり、ものでないものという思いが生じても、やはり自我等々への執着が生じる。要するに、求道者はものにこだわってはならないのだ。なにごとについても虚心であることが肝要だというわけである。

ここで仏陀は、筏の譬えを持ち出す。曰く、「汝ら比丘よ、わが説法を筏の譬えの如しと知る者は、法すらなおまさに捨つべし。いかに況や非法をや」。筏の譬えとは次のような内容の話である。あるものが大河を前にして悩んでいた。大河のこちら側には危険が満ちていて、大河のあちら側は安全である。そこでその者は、葦などを集めて筏を作り、それを手でこぎながら対岸に渡った。安心したその者は、筏に命を助けられたとして、それをずっと頭に戴いて行こうと思ったのだが、その思いは正しいか、そうではあるまい。というのがこの譬の教訓である。仏陀は、この教訓を理解しているものは、法にこだわってはならないし、また法でないものにもこだわるべきではない、というのであるが、それで以て何をいいたいのか。要するに、ものにいつまでも執着すべきではないということなのだろう。

第七節は、仏陀にも阿耨多羅三藐三菩提と呼ばれるようなものはないと説く。ここで阿耨多羅三藐三菩提とは、この上なく正しい悟りのことをいうが、その悟りを言葉として表したようなものはないというのだ。その理由は、仏陀の教えは、理屈で認識できるものでもなく、また言葉で説明できるものでもないからだという。それは理法ではなく、また非法でもない。法を超えたものなのだ。真実は言葉によってではなく、それ以前の直観のうちにある。それを無為の法と呼んでいるが、その意味は言葉によって分節される以前の、絶対的な直観のことをさす。

第八節は、この経典の功徳について説く。まず、この広い世界を七宝で満たして布施する人の福徳が讃美され、そののちに、その福徳にはるかに勝るものとして、この経の文句を唱えることの功徳の大きさが語られる。曰く、「この経の中において、乃至四句の偈等を受持して、他人のために説くときは、その福は彼よりも勝れたり」。なぜなら、「一切の諸仏および諸仏の阿耨多羅三藐三菩提の法は、皆、この経より出でたればなり」と。この経とは、般若経のことである。

第九節は、修業を積んで高い境地に達した人々のあるべき姿について説く。大乗仏教では修業を積んで高い境地に達した人を菩薩というが、ここでは小乗における聖者を引用しながら、それら聖者のあるべき姿について説く。小乗仏教では、聖者には四つの階梯があって、それを四向あるいは四果と呼んでいる。低い階梯から順に、須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢である。

まず須陀洹。これは迷いを断ち切って初めて聖者の流類に入ったもののことで、入流とも呼ばれる。その須陀洹が、自分は永遠の平安への流に入ったなどと思ってはならない。なぜなら彼は何ものをも得てはおらず、それゆえに永遠の平安への流に入ったのであるから、そのことをことさらにいう必要はないからである。かれは形を得たわけでも、声や香りや味や触れられるものや心の対象を得たわけでもないのだ。要するに何も得てはいないのだから、それをあえて誇ることはないのである。

斯陀含は、一度だけ来る者という意味で、一来とも呼ばれる。斯陀含は死ぬと天に赴き、再び人の世界に生れかわってのち、涅槃に入るとされる。その斯陀含が、自分は斯陀含の果を得たなどと思ってはならない。なぜなら、天上との往来とはいっても、実際にはそのような往来はないからである。経はそう説くのだが、これはちょっとわかりにくい部分だ。

阿那含は、決して帰って来ない者と言う意味で、不来とも呼ばれる。その阿那含が、自分は阿那含の果を得たなどと思ってはならない。なぜなら、不来というのは、実際にはこの世に来ることがないからだ。この世に来ることがない者が、この世に来ることがないことにあえてこだわる必要はないのである。この理屈は、一来のものよりはわかりやすい。

最後に阿羅漢。これは小乗仏教が修行者の到達する最高の境地としているものだ。小乗仏教には菩薩の概念はなく、まして人間が成仏して仏陀あるいは如来になるという思想はない。人間は人間のまま、煩悩から解放された悟りの境地に達すると考える。その悟りの最高の境地に達した者を阿羅漢というのである。その阿羅漢が、自分は阿羅漢道を得たと思ってはならない。何故なら、そう思うことでその者は、自分についての執着から逃れていないからである。そういう執着があるから、自分は阿羅漢になったなどと自慢したくなるのである。それは増上慢というべきである。

須菩提はそのことをよく理解しているので、自分は阿羅漢であるなどとは決して思わないと言う。そう思ったときには、仏陀は自分を阿羅漢の行を楽しむなどとはおっしゃらないでしょう、というのである。そう思わないことを仏陀はわかっておられるから、自分のことを無諍三昧を得た人の中の第一といわれるのである。



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