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大乗起信論を読むその八:信心のための修行について


第三段「解釈分」に続いて第四段「修行信心分」は、信心のための修行について説明する。これはすでに、「解釈分」の最後の部分で触れられていたものだが、それを改めてとりあげ、しかも実践的な方法に言及したものである。「解釈分」における修行の説明は多分に理論的なものだった。それをここでは修業のための実践的な方法について述べ、しかも一般の衆生にもわかりやすいように説明しているのである。

まず修行への心掛けとして、自分は必ず救われるという信心をもつことが重要だと指摘する。そのためには、仏法僧へ深く帰依しなければならない。その上で、五門の修行法を通じて、信心を完成するのだとする。五門とは、第一に布施門、第二に持戒門、第三に忍耐門、第四に精進門、そして第五に止観門である。これらはそれぞれ六波羅蜜に対応している。第五の止観門だけは、六波羅蜜のうち禅定と知恵との複合したものである。

布施門は、自分の持っているものを、それを必要としている者に惜しみなく与えることである。それが修業と言われるのは、人間はなかなか自分の持てるものを放棄したがらないので、それを難なくできるようになるには修業が必要だからであろう。持戒門は、殺生をしないことを始め、さまざまな戒律を守ることである。忍耐門は、他人から迫害されても、それに耐えることである。精進門は、志を立てて善行に邁進することである。

第五の止観門は、修行のうちでもっとも重要な意義を持つ。止観の止とは、具体的には座禅のことである。また観とは正観つまり大非心を起こすことである。座禅によって真如三昧の境地には至れるが、しかしそれだけでは、単に自分だけがさとりを得ることに終わり、他の衆生を顧みることがない。それでは心の狭いままである。さとりの究極的なあり方は、自分がさとりをひらいたなら、それをもとに衆生を救済するようにつとめることでなければならない。それが大乗仏教の根本的な思想なのである。

まず、座禅について。座禅とは、結跏趺坐して、心を正すことをいう。心を正すとは、「あらゆる思いを、その思いの生じるごとに、ことごとく除き去り、しかも除き去っているのだとの思いをも捨て去る」ことである。言い換えれば心の中を空にすることである。もし気が散ったときは、一切の現象は心の産物であって、外界の対象は実は存在しないのだと知るべきである。人は、存在しないものによって、惑わされることはないはずだからである。

こうした修行を通じて、心は次第に鋭利になり、安定してくる。もはや外的な現象に惑わされることはなくなり、心の真実のあり方を理解できるようになる。そういう境地を真如三昧と呼ぶのである。真如三昧に入ることによって、諸々の現象の根元はすべて同一の相であるということをさとるのである。それを法界一相という。仏の本性と衆生の心のあり方は本来同じだという意味である。

座禅にあたって注意すべきことは、さまざまな邪魔である。これにはいくつかの種類がある。まず、鬼神の誘惑。座禅中に、思いが乱れた時など、鬼神がうるわきし男女の姿をとって性的に誘惑することがある。その際には、あらゆる現象は心の産物だということを思い、その誘惑が根拠のないものだと知るべきである。

鬼神は、時には如来や菩薩の姿となって、偽の三昧を得させようとすることもある。これは性的な誘惑よりも強烈な作用を及ぼすものだが、その場合でも、心を空虚にすれば、そうした誘惑に勝つことができる。

そういうわけであるから、修行者は心をつねに安定させて、邪網にかからないように心がけねばならない。だが修行は、一人のみではなかなか進まない。特に修行の未熟な凡夫の場合には、善き先達(善知識)に導かれてこそ、真如三昧を習得できると知るべきである。真如三昧を習得できれば、次の十首の利益が得られる。①つねに十方世界の諸仏・諸菩薩によって守られる、②諸魔、悪鬼によって恐怖させられない、③九十五種の外教や、鬼神によって惑わされない、④甚深な仏の教えを誹謗することがなくなる、⑤一切の疑念と、誤った探求心や観察心が消滅する、⑥如来に対する信が増加する、⑦憂い、悔恨の心を離れる、⑧心が柔和となり、他人に悩まされなくなる、⑨どんな対象に対しても、煩悩を減らすことができ、世間的なことに欲望を持たなくなる、⑩下界の一切の音声に驚かされない。

座禅が真如三昧に達するための方便だということは、井筒俊彦も強調している。井筒の場合には、さとりということではなく、神秘思想における世界の根元的なあり方の把握への通路として、座禅あるいは止観というものを取り上げたのであるが、その根源的なあり方こそは、真如三昧によって開かれるものなのである。その根源的なあり方というのは、表層意識によって分節される以前の、(深層意識によって捉えられる)第一次的な所与をさしていた。その所与を、われわれの分別心、つまり表層意識が分節することによって日常的な経験世界が開かれてくるわけだが、それを大乗仏教は心の生んだ仮象といい、井筒は分節化された日常的経験世界というわけである。

ともあれ、話題を戻そう。次は、正観についてである。正観とは、大非心を起こすための修行である。大非心を起こすことによって、自分のさとりだけではなく、ほかの人のさとりもひらかせてやろうとつとめるということ、それが大非心の内実である。

真のさとりを開くためには、座禅つまり禅定と正観を並び修行すべきである。しかし世の中には、こうした修行に耐えない者もいる。そうした人たちには、如来がとっておきの法を用意している。それは専修念仏である。阿弥陀経に書かれている通り、「もし人が西方極楽世界の阿弥陀仏を念じつつ、それまでに修習した善根の功徳を振り向けて、その仏の世界たる極楽に生れたいと願う者があれば、その人は即座にそこに往生できる」。極楽に往生できれば、阿弥陀仏の教えにしたがって、さとりを得ることもできる。こうした他力信仰の要素も、起信論は含んでいるのであるが、付けたしとの印象もまぬがれがたい。もっともこの要素があるために、大乗起信論は、浄土宗系統の人びとにもよく読まれるのである。

起信論はこの後、観修利益分を経て流通分で締めくくっているが、この小文は、ここまでのところで筆をおくこととしたい。



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