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大乗起信論を読むその六:対治邪執について


対治邪執とは、誤った見解を克服することである。凡夫はもとより二乗の修行者でも、仏教の教えを曲解するものがある。そうした曲解を克服して正しい理解をさせることが対治邪執の目的である。しかして誤った見解(邪執)はすべて、ものを実体視すること(我見)に基づいている。したがって、ものを実体視することがなければ、誤った見解もなくなる。その実体視には二種類ある。一つは人我見、一つは法我見である。人我見は凡夫が陥りやすい実体視、法我見は修行者でも陥りやすい実体視である。

人我見には五種のものがある。第一は、お経の中に、「如来の法身は究極において寂漠としている。それはちょうど、虚空の如くである」とあるのを誤解して、虚空が如来の本性(如来性)つまり実体と思い込む誤りである。これに対しては、次のように説明して、その誤りをただす。すなわち、虚空とは存在が虚妄であることをあらわすための比喩のようなものであって、それ自体実体的に存在するものではない。一切の形ある存在者は、心の生み出したものであり、真実に存在しているわけではない。それらは心が動くから生まれるのであって、心が動くことがなければ、一切の対象的な存在者は消えて、真実の心(心真如)だけが残るのである。

第二は、お経の中に、「世間の諸存在は畢竟して空であり、また涅槃とか真如というものにも畢竟して実体はない」とあるのを誤解して、真如あるいは涅槃の本性も空つまり何もないと思い込む誤りである。これに対しては、次のように説明して、その誤りをただす。すなわち、真如のあり方は決して無内容なものではない。それは無量の特性を備えているものだからである。あらゆる存在は、真如を基礎としてそこから生まれるのであるから、無内容などではないのである。

第三は、お経の中に、「如来蔵は不増不減であり、如来のもつ一切の特性を備えている」とあるのを誤解して、如来蔵には物質と精神の両面にわたって種々の特質が備わっていると思い込む誤りである。これに対しては、次のように説明して、その誤りをただす。すなわち、如来蔵というのは、心の真実のあり方をさしているのであり、その真実の心のあり方(心真如)に無明が働くことによって心が生滅し、それが物質とか精神とかの現象となってあらわれる。真実の心のあり方自体には、何らの差別はないのである。

第四は、お経の中に、「世間のすべての生死輪廻に伴う汚れの現象は、すべて真如においてある。それ故、一切の現象は真如を離れたものではない」とあるのを誤解して、如来蔵自体に世間的な生死輪廻にかかわる諸現象が備わっていると思い込む誤りである。これに対しては、次のように説明して、その誤りをただす。すなわち、如来蔵にはガンジス川の砂の数を超える無量の清浄な特性のみが備わっているのであり、生死輪廻にかかわるような諸現象は、如来蔵に根源的な無知が働くことによって生じるのである。如来蔵には世間的な生死輪廻にかかわる諸現象が備わっているわけではない。

第五は、お経の中に、「如来蔵にもとづいて生死輪廻もあり、如来蔵にもとづいて涅槃もある」とあるのを誤解して、衆生の存在には始まりがあり、始まりがあるのだから終りもある、それゆえ衆生がめざすところの涅槃にも終りがあると思い込む誤りである。これに対しては、次のように説明して、その誤りをただす。すなわち、如来蔵には始まりはない、また終りもない、始まりや終りがあると思われる諸現象は、如来蔵そのものがもたらしたものではなく、如来蔵に根源的無知が働いたことによって生じたのである。

以上が人我見にかかわる説明であった。一方、法我見は、修行者でも陥りやすい誤りであるから、人我見より深刻な様相を呈している。初歩的な修行者(二乗)は、五陰(存在の五種の要素)は消滅の法にしたがうので、それを超脱して、生死・消滅のない涅槃の境地に達したいと誤って考える。なぜ誤りかというと、五陰からなる世界を離れて、涅槃の境地はないからである。この誤りをただすには、五陰は仮象であって、本来不生であり、滅することもない。不生不滅ならば、それこそが涅槃であると説明する。この説明は、堂々巡りのように見えて、すんなりとは腑に落ちないのであるが、言いたいことの要点は、五蘊(五陰)皆空ということのようである。

五蘊皆空とは、虚妄に執着するのを戒めるためのスローガンである。このスローガンの意味をよく理解させ、虚妄を脱却してさとりを得させることが、大乗仏教の目的である。ではどのようにして虚妄を脱却させるのか。汚れといい清浄といい、そういう現象はすべて相対的なもので、それ固有の特質があるわけではない。一切の現象は、物質でもなく、精神でもなく、直観的な知恵でもなく、分析的な認識でもなく、存在でもなく、非存在でもない。それらは言葉によって明確に定義できるようなものではないのだ。にもかかわらず、それを言葉によって説明しようとするのは、如来の優れた方便なのである。便宜的に言葉を用いて衆生を導くのが如来の目的である。その意図するところは、衆生が虚妄な心の動きを離れ、心の真実のあり方に帰ることである。心の真実のあり方とは、根源的無知によって汚される以前の、無垢な心の状態をさす。その状態においては、生もなく滅もなく、すべては常住でしかも分別を超えている。人間にまよいをもたらすのは、いらぬ分別なのだということを、大乗仏教は繰り返し主張し続けるのである。



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