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大乗起信論を読むその五:対象的世界の虚妄性


まよい(不覚)とは、心の真実のあり方(心真如)がすべての衆生に平等に備わっていることを知らないために、さまざまな心の動き(心生滅)が現れることを言う。しかし、その心の動きが、さとり(覚)と全く別のものだというわけではない。世間で人が道に迷うのは、方角を立てるからで、方角を決めなければまようことがないのと同じである。さとりもまよいも、同じ一つの心の状態なのだ。

まよいの状態にある心には、三種の相(三細)があらわれる。第一は、根源的な無知にもとづく業の相(無明業相)。これは、心の真実のあり方を知らないために、心に動きが現れることである。心の真実を知らないことを根源的な無知という。根源的な無知というのは、衆生の心は本来真実のものだが、それを衆生は知らないということをさす。真実を知れば、心の動きはやむものである。

第二は、主観としての相(能見相)。心が動くと、そこに主客の対立が生まれ、心は主観として対象を弁別する。心の動きがなければ、心が主観として対象を弁別することはない。

第三は、客観としてあらわれる相。心が働くと、対象が真実らしいものとして現れる。実際には、対象は主観としての心が作り出したもので、それ自体としては存在しない。だから心の動きがやめば、対象も消滅する。その意味で、対象とは仮象なのである。

客観としての対象の現れ方には、六つの相(六粗)がある。第一は感覚知に基づく相(智相)、第二は感覚知の持続する相(相続相)、第三は対象に執着する相(執着相)、第四は対象を概念的に捉える相(計名字相)、第五は対象を探求する相(企業相)、第六は対象にしばられて自由を失う相(業繋苦相)の六つである。

これらの相を通じて、心の動きとかそれにともなう主客の対立とかは、心の本来のあり方ではなく、仮のあり方、すなわち仮現であることを認識することが重要である。これらすべては仮象であって、心の動きが作り出したものなのである。これを言い換えれば次のようになる。すなわち、①真実を知らないために心に動きが起り、②対象を見て、③対象をあらわし、④その対象を対象として弁別し、⑤それに対して思いを起して持続させる、という一連のプロセスが生じる。このプロセスの中から、日常的な経験世界が成立してくるのだが、それは仮象であって、心の動きが作り出したものだということを理解しなければならない、というわけである。

心はまた、「意」とか「意識」とかいわれる。それらにも固有の相が指摘できるが、基本的には上述した三細六粗に対応したものである。ちなみに「意」の相をあげると、第一に根源的無知によって心が動き出す業識、主観として働く転識、客観として働く現識、対象を感知する智識、感知を持続する相続識といった具合で、いずれも三細六粗のどれかに対応している。

重ねていうが、三界すなわち日常的な経験世界に属するものはすべて心の作り出したもので、虚妄に過ぎない、というのが起信論の基本的な考え方なのである。それは大乗仏教にとっての基本的な考え方といってよい。般若心経にある五蘊皆空の思想と全く同じものが、起信論にも述べられているのである。

心が動くのは、根源的無知のためだが、そういう状態にある心は、汚れた心(染心)という。染心には六種の状態がある。執着を特色とする執相応染以下の六つであるが、これもまた三細六のいずれかに対応している。

これらはいずれも根源的無知を原因とするのであるから、根源的無知がなければ、仮象として生滅することはない。仮象がなくなれば、日常的経験世界としてあらわれていたものもなくなるわけで、世界は虚無になると考えられる。虚無と言っても、それは仮象としての世界がなくなるというだけで、根本的な意味での世界がなくなるわけではない。もっとも仏教では、この世界から超脱して、存在することをやめることが目的となっているので、究極的には、あらゆる存在から解放された、完全な虚無をめざしていると言えなくもない。

ところで、まよいが生じるのは心が動くからだが、それについては、迷いの原因となるものが、心に働きかけるからだといえる。この働きかけのことを薫習という。なぜ薫習というのか。衣服自体には香りがなくても、人が香を焚き占めると香がつくのと同様に、心の真実のあり方には汚れはないが、根源的な無知が働くとそこに汚れが生じ、その反対に、根源的に無知なるものには浄化の働きはないが、それに真実のあり方が働くと、そこに清浄な作用が起る、というような意味合いである。

それゆえ大事なことは、心の真実なあり方の働き(真如用)に最大限の薫習を発揮させて、根源的な無知をなくすことである。そのためには、心の本性は不動のもの(無念)とさとり、虚妄にまどわされないことが肝要である。それを実現するためには、意識の表層部分にとらわれていないで、つまり仮象にとらわれないで、意識の深層に分け入り、そこに分別以前の心の本来のあり方を見出すのでなければならない。

こんなわけで起信論は、心の真実の状態と、根源的無知によって汚された生滅の状態とを取り上げ、生滅する心のあり方を脱却して、真実の心のあり方、つまり心真如の状態に到達することを目的とする。そうして到達された心の状態をさとり(覚)というのである。くりかえしになるが、さとりには、心に本来備わっている本覚と、根源的無知によって汚されながら、迷いを克服することで回復されるさとり、すなわち始覚の、二つの側面がある、ということを忘れてはならない。



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