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大乗起信論を読むその四:まよいとさとり


衆生の心は、心真如と心生滅とからなっている。この二つは異なったものでありながら、同じ一つの心の二つの面である。心真如のほうは、心の基層部分ともいうべきもので、心の真実のあり方がそこで生起している。そのようなあり方を如来蔵とも呼ぶ。如来と同じ真実のあり方がそこにあるという意味である。心生滅のほうは、心の表層部分ともいうべきもので、そこでは現象的な経験世界が生滅している。要するに衆生の心は、心の真実のあり方としての不生不滅の心真如の上に、生滅を繰り返す現象的な世界である心生滅とが乗っているような形をなしている。この両者が、重層的な形ながら和合している姿を、アラヤ識という。

アラヤ識には二つの面がある。一つは覚、一つは不覚である。覚とはさとりの状態であり、不覚とはまよいの状態である。アラヤ識とはこの両者、すなわち覚と不覚、さとりとまよいの状態が和合したもの、つまり和合識である。さとりとは、心の真実のあり方が分別・思惟を離れている状態をさす。つまり分別以前、未分節の心の状態をいう。分別・思惟が働くと、心は消滅の相に移行し、そこにまよいが生じる。衆生はこのまよいを克服し、さとりをめざさねばならない。ところでさとりには、二つの状態がある。まよいに陥る以前のそもそものさとり、それを本覚という。まよいを克服してさとりにいたることを始覚という。しかしてまよいを完全に克服して完全なさとりに至った状態を究竟覚という。

以上の事態を井筒俊彦は次のように説明している。さとりの状態は意識の深層部分で起きる。一方まよいは意識の表層部分で起こる。われわれの通常の意識の動きは、まよいを克服してさとりの状態をめざすのだが、一旦まよいを克服してさとりに至った意識は、意識本来に備わっているさとりとは別な次元の状態に達する。本来的なさとりは、たんなる空虚としてイメージされるが、迷いを克服したさとりは、単なる空虚ではなく、生滅の相をうちに含んでいる。つまり、消滅として現れる現象が、表層的で一面的な現象ではなく、深層的なものに支えられた重層的な基盤を伴なった現象として現れる、というのである。いいかえれば、不生不滅に媒介された生滅ということになる。

まよいを脱してさとりに至る道は四とおり、あるいは四段階あるという。第一は、悪心を起し、これに気づき続いて起こさないように努めるというものであるが、これは厳密にはさとりといえない。まだまだまよいの状態である。

第二は、修行者(二乗という)やなり立ての菩薩が、心の変化の相から自由になることで、これを相似覚という。まだほんとうのさとりではないが、それに似ているからである。

第三は、修業を積んだ菩薩が、その心が持続の相から自由になって、分別もなくなり、自己への執着もなくなるので、究極のさとりに近くなるが、まだ微細な心の働きは残っているので、分に応じたさとり(随分覚)という。

第四は、究極のさとり、究竟覚であって、その状態では、心にはもはや生滅心が起ることもなく、微細な心のはたらきも消滅し、心は本性のままに常住不滅となる。

こういわれると、さとりとは我々凡俗のなしうるところではなく、菩薩や如来にのみ本当の意味で可能な事柄だと思わされる。というのも、我々凡俗には、心の一切の働きをやめるというようなことは、死にでもしないかぎり出来そうもないと思われるからである。実際仏教では、さとりをひらくというのは涅槃の境地に達することを意味するが、そういう事態を成仏といっている。成仏とは仏になることだが、それは生きたままではなれない、というふうに考えられているのではないか。

ところで、衆生はなぜまよいに陥るのか。それは、無明(根源的無知)のせいである。心は本来無念つまり生滅心の働かないものだが、そこに無明が作用することで、生滅心が働き、まよいが生じる。その事態を起信論は、風と波の関係にたとえている。波は水であって、それ自体はもともと動かないものであるが、それに風が作用することで波が起る。風がやむと波もなくなるが、しかし水そのものはなくならない。それと同じように、無明が働くと心には生滅が生まれるが、無明がやむとお生滅はなくなる一方、心そのものの本来の姿は同じままである。我々は、つねに無明を遠ざけて、心の本来の姿、つまり心真如の状態を実現するよう努めねばならないのである。

起信論はまた、さとりの状態を鏡に譬えている。それも四種の鏡の状態に。第一に、本来のあり方としてのさとり(本覚)は、なにも映っていない空っぽな鏡(如実空鏡)である。鏡自体には何も映し出すものがないように、さとり自体にはなんらあらわしだすものがないのである。

第二に、それは衆生の心の現われの原因として働く鏡(因薫習鏡)である。鏡が何でも映し出すように、さとりの状態にある心にはすべてのものが、そのままの姿で映し出される。第三に、それはすべての汚れがはらい去られた状態の鏡(法出離鏡)である。第四に、それは、仏によって外から衆生に働きかけられる鏡(縁薫習鏡)である。この状態の鏡は、本来仏に備わっている本覚と同様のものを、衆生の心にあらわす。

これを敷衍していえば、衆生の心はそもそも何も映っていない鏡のようなものだが、究極的なさとりの状態に達すると、仏の心のあり方と同じような状態になる。それは、世界がそのままに移っているのであるが、しかし生滅の相にある世界ではなく、不生不滅の相にある世界だということになろう。



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