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大乗起信論を読むその三:心のあり方


立義分において本論の大綱を述べた後、解釈分はその詳細を説明する。解釈分は三つの部分からなる。一に顕示正義、二に対治邪執、三に分別発趣道相である。顕示正義とは、正しい教え、すなわち心が真如と生滅からなるということを提示するものであり、対治邪執とは誤った見解、すなわち生滅心の生んだ仮象を実像と取り違える過ちを正すものであり、分別発趣道相は、以上を踏まえて、心を悟りに向けて促すものである。

まず、顕示正義。これは二つの部門からなる。一つは心真如について説く部門、一つは心生滅について説く部門。心真如は心の真実のあり方であり、心生滅は日常的経験世界としてあらわれる仮象のあり方であるが、この両者は異なったものではない。一つの心の、次元を異にした現れなのである。しかして世界は、この心以外のものではない。一切は唯心であり、心の外に対象が実在することはない。

この心真如と心生滅の関係を、井筒俊彦は、心の深層部分と表層部分との関係として捉えている。我々の日常的な経験は、対象を分節することによって得られるが、それは心の表層部分において行われる。これに対して心の深層部分においては、対象が分節される以前の混沌とした全体として世界が現れる。そのように捉えたうえで井筒は、心のこの二つの領域をつなぐものとしてアラヤ識というものを位置付けた。アラヤ式は、深層意識にあらわれたものを、一次的に分節して、それを表層意識につなぐ。表層意識では、それをさらに細かく分節して、具体的な対象として認識する。そういうものとして井筒は、心の構造を重層的なものとして捉えるのである。したがって、心真如と心生滅とは、全く違ったものではなく、同じ一つの心のなかの次元の相違ということになる。なお、アラヤ識については、起信論のこの後の部分で取り上げられる。

心真如、すなわち心の真実のあり方は、すべてのものの共通の根源、つまりあらゆるものがそこから生まれてくる根源である。それは、分節以前の混沌とした状態にあって、したがって言葉では表現できない。言葉とは分節の働きと同じものだからである。言葉というものは、対象を弁別するための便宜として使われるものだが、そうして捉えられた対象とは、真実のものではなく、仮象にすぎない。ところが我々は、その仮象を実在と思い込む。それを妄念という。妄念が生み出すのは仮象であって、真実の存在ではない。真実の存在つまり実在は、心真如によって捉えられる。それは言葉によって表現できるものではなく、あくまで体験できることなのである。実在は認識するものではなく、体験するものなのだ。この事態を離言真如という。

ところで、真如という言葉には二つの意味があると起信論はいう。一つは空、一つは不空である。空とは、すべての現象つまり仮象は妄念の所産であって、真実ではないということを意味する。これは否定的な言い方になるが、肯定的な言い方に言い換えると、心の真実のあり方においては、妄念を生みだすすべての汚れたもの(染法)が結びついていないということを意味する。

不空とは、空の否定であるが、それは実際には、心真如が堅固、不滅であり、清浄な徳相に満ちているので、その満ちている点を不空というのである。つまり徳相を具足しているという意味である。

こうして見ると、心真如とは、心の深層の部分にあって、世界が分節される以前の混沌かつ一体的なものとして与えられている状態をさすということがわかる。本論は、そうした状態こそが心の真実のあり方であり、分節の働きに依存する心のあり方、すなわち心生滅の側面は、偽りあるいは虚妄の状態だと否定的に見るわけである。通常の見方によれば、人間の認識は対象の分別に根差していると考えるわけで、しかもその認識が明晰・判明であることが重要だとするわけであるが、起信論の論じる仏教的な世界観においては、その真逆の見方が重要視されるわけである。

西洋的な価値観によれば、世界は認識の対象であって、その認識の精度を求めて人間は努力すべきだとかいうことになるが、仏教的な価値観にあっては、そうした認識は一切合切妄念の生み出す虚構ということになる。それでは、対象的な世界を十全に認識することができないではないかという批判が当然出て来るが、そうした批判に対しては、それもまた妄念のなせることだといって、仏教的な世界観は全く相手にしないであろう。要するに、世界についての根本的な姿勢が違うのである。

西洋的な価値観、すなわちキリスト教的な価値観は、人間による世界の支配をめざす。それに対して、仏教的な価値観は、世界からの離脱をめざす。支配を貫徹するためには、支配される対象をよく知らなければならない。ところが世界からの離脱をめざしている者にとって、世界を認識することに、どれほどの意義があるのか、ということになる。世界からの離脱をめざす者は、対象的な世界を否定して、存在すること自体をやめることをめざすのである。そうした者にとっては、日常的な意識にあらわれる経験的な対象世界よりも、あらゆる存在の根拠となっている心真如に眼を向けることの方が、はるかに重要なのである。存在の根拠を理解・体得できれば、存在をやめる手がかりを得られるかもしれないのだ。



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