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大乗起信論を読むその二:法と義


第一段「因縁分」で本論の動機を述べた後、第二段「立義分」では、本論の構成が述べられる。義という言葉は、論の大綱を意味し、それを立てるというのであるから、本論の構成を述べるというわけである。だから、いわば目次のようなものにあたる。

大乗には二つの側面がある。一つは法、一つは義である。法とは、大乗とは何かという問いへの答え、つまり大乗の本体をさす。また、ここでいう義とは、大乗とはいかなるものかという問いへの答え、つまり大乗の意味をさす。

大乗の本体たる法は、衆生心である。衆生心とは、われわれ人間の心をすべて包含するような、集合的な心のことをいう。つまり我々の心の外に大乗があるわけではない。ここで改めて大乗という言葉に着目すると、それは我々を涅槃の境地に連れて行ってくれる大きな乗り物のことであった。その乗り物は、我々の心の外にあるわけではなく、我々の心そのものだと、ここでは言っているわけである。ということは、どういうことか。追々明らかになっていくと思うが、とりあえずは、大乗起信論は、世界を心とは別のものではないという立場にたっているということが、おぼろげながら伝わってくる。井筒俊彦は、大乗起信論は壮大な唯心論を展開していると言っているが、その根拠は、大乗を衆生心として捉えたという点にある。

衆生心には二つの側面がある。一つは真如の相、一つは消滅の相である。真如の相における衆生心を心真如といい、消滅の相にある心を心消滅という。真如とはなにか。心の本来のあり方をさしていう。心の本来のあり方とは、世界を直接に、ありのままに、つまり分節されない混沌とした全体として捉えるようなあり方である。それに対して消滅とは、世界を分節して捉えるような心のあり方である。分節することで、自我と対象とが分裂し、対象は対象で、それぞれが他のものとは異なるものとして差別される。分節と差別あるいは区別は同じ働きなのである。大乗起信論はいずれ、心のこの二つの相のうち、真如のほうを本来的なものとし、消滅の方は非本来的なもの、つまり仮象だと主張するようになる。

われわれ人間の心にあっては、経験的な世界は分節された姿として現われる。つまり心の消滅の相が、われわれの経験的な世界を現出させている。ところが大乗起信論は、それは仮象であって、人間の心が作り出したものだ、という見方をする。世界の本来的なあり方は、分節される以前の、混沌とした全体として現れるものである。その全体的なものにおいては、自我と対象との分裂もなく、対象相互の区別もない。

なお、この部分で、世間法、出世間法という言葉が使われているが、これは、消滅の相及び真如の相に対応するものだ。世間法が消滅の相における分節された在り方、出世間法が真如の相における未分節のあり方をさすのである。心はその二つながらがそこで展開する場として捉えられている。

以上が大乗の本体としての法についての説明。ついで義についての説明がある。義には三つの側面がある。一つは体大、一つは相大、一つは用大である。体大とは、大乗の体であるところの真如が、普遍的でかつ平等だということを意味する。これは、一切衆生が平等に真如を分け持っているという意味だ。ただに衆生の間で平等であるのみならず、如来との間でも平等である。いかなる人も、如来になる資格があると、大乗起信論は捉えるのである。

相大とは、衆生の心が如来と同じ徳相を無量に備えているということを意味する。衆生心のそのようなあり方をさして如来蔵という。如来蔵とは、衆生が如来と全く同じ能力を備えているという意味である。これがあるためにすべての人は、菩薩を経て如来すなわち仏に成ることができるのである(あるいはそのような可能性をもっているのである)。

用大とは、衆生心のはたらきが大きいということを意味する。衆生心のうちの真如の相が、世間的あるいは出世間的なすべてのものごと、ことがらの、因となり果となる。つまり、世界のすべての事象が心を舞台に展開するということだ。その事象には、分節以前の混沌たる全体としての世界も、また分節された経験的な世界も、すべて含まれる。衆生心は世界全体に匹敵しているのである。それゆえ、唯心論の世界といわれるわけである。

以上、立義分において、大乗起信論の想定する世界観が示された。世界は、キリスト教が考えるような、神によって創造されたものではない。第一、大乗仏教には神という概念はない。如来というものは神とは違う。キリスト教の神は、人間は無論、世界からも超越している。人間は世界とともに神によって創造されたものだ。だから神は人間に対して親のように振る舞うと考えられる。親との関係は、基本的には、支配と服従の関係である。人間は神に服従することで、死後天国に迎えられると考えられる。天国というのは、永遠の理想郷として捉えられている。それもまた神によって創造されたもののはずだから、おそらく世界のどこかにあるのだろう。ダンテの世界観は、そのような見方を反映して、天国はこの世の地続きにあるところとして観念されている。

それに対して、大乗起信論が述べている仏教的世界観は、如来と衆生とを平等のものとして捉えている。人間は誰でも菩薩を経て如来になることができると考えているのである。如来になると仏国土というものを主宰するようになり、そこに住む衆生を救済するという使命が与えられる。そもそも我々が生きているこの現世は、釈迦如来が主催する世界と考えられているのである。

如来の最終的な目的は、涅槃に至ることである。これには仏教に特有の世界観が反映している。仏教には輪廻転生という思想があって、人はほぼ永遠にわたって輪廻転生をくりかえすが、それは基本的にはつらいことだと考えられている。そのつらい輪廻転生から解放されて、涅槃に至るというのが、仏教の最終的な目的である。涅槃というのは、輪廻転生から解放された状態を意味する。輪廻転生は存在を前提とするから、そこから解放されるというのは、存在から解放されるということを意味する。つまり永遠に無に帰すこと、それが涅槃という観念の意味である。

キリスト教は、天国という、現世とは別の世界を理想にしたのだが、仏教は世界そのものから超脱して、無に帰することを理想にしている。そんなことからキリスト教徒たちは、仏教はニヒリズムの思想であって、救済のための宗教ではないと批判する。存在から解放されて無に帰することが、人間にとって救済になるとは、キリスト教徒には考えられないのだ。

ともあれ、この立義分のところでは、大乗仏教の基本的な考えが示され、以後それらについて詳細に説明していくというような構成になっているのである。それゆえこの部分を、目次のようなものだと述べたのである。



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