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佐々木閑「大乗仏教」


佐々木閑は仏教学者で、鈴木大拙の研究もしており、大拙の名著といわれる「大乗仏教概論」を日本語に訳している。これは英語で書かれたもので、欧米人にとっては、仏教理解のための入門書のような役割を果たしている。もっとも大拙の仏教論には、西洋の仏教学者を中心に強い批判があると佐々木は言う。大拙のいう仏教は、釈迦の創始した仏教とは似ても似つかない。それは仏教よりもヒンドゥー教に近い。いづれにしても本物の仏教ではないと言うのだ。そこは佐々木も賛成していて、大拙の仏教は大拙教と言うべきかもしれないなどと言っている。

その大拙は、大乗仏教理解の手引きとして「大乗起信論」を高く評価している。井筒俊彦なども「大乗起信論」を高く評価して、それをネタにして、「意識の形而上学」を書いた。かれらは「大乗起信論」を、従来の言い伝えにしたがって、古い時代に、ということは大乗仏教が成立した紀元前後に、インドで成立し、その後漢訳されたと受け取っているが、それは間違いだと佐々木は言う。日本のある仏教学者が、これは南北朝時代の中国で、中国人が中国語の文献に基づいて書き上げ、それをインド人に仮託したものだと言うのだ。そう言って佐々木は、「大乗起信論」の権威に水をさすわけだが、果たして成立過程の認識に齟齬があったからといって、書物自体の価値まで毀損されるのかどうか、大乗仏教にあまり通じていない小生には判断がつかない。

ところでこの本「大乗仏教」は、わかりやすい対話形式を借りながら、大乗仏教の代表的な経典をとりあげ、大乗仏教各派の特徴を比較したものである。非常にわかりやすく書かれているので、この本を読めば、少なくとも、今の日本で行われている大乗仏教各派の特徴とか違いといったものが理解できる。

総論として佐々木は、釈迦の仏教と大乗仏教とでは、根本的に異なると言っている。釈迦の仏教は、一部のエリートたちのためのもので、厳しい修業を課すことを特徴としているが、大乗仏教はすべての人間の救済を目的としており、また厳しい修業を要求したりはしない。にもかかわらず、同じ仏教という言葉を使っているのは、世界観・人生観が共通しているからだという。釈迦の仏教も大乗仏教も、この世に生きることはつらいという、強烈な厭世観があって、それが涅槃とか浄土へのあこがれを生むのだが、そのあこがれとは生きることから解放されることだと言うのである。そんなわけだから、仏教は厭世の思想だなどと、欧米人に批判されたりするということらしい。

大乗仏教は、西暦起源前後にインドで成立したが、それを中国人が受け入れるにあたっては、中国流に変容された。中国流の変容がもっとも顕著なのは、浄土宗の流れであって、これは釈迦の仏教とはもっとも対極に位置する。その他の宗派も多かれ少なかれ、インド起源と中国で変容されたものとでは、かなりな違いがある。それが日本に来ると更に変容され、日本独自の仏教が生まれた。禅宗にしろ、浄土宗にしろ、いまでは日本にしかないものであるという。同じ名前のものはあるが、中身が全く違うということだろう。

佐々木は、大乗仏教の代表的な経典を成立順にあげ、大乗仏教各派の生成・発展のプロセスを追っている。最も古いのは般若経で、以後法華経、浄土教、華厳経、密教、大乗涅槃教と続く。それぞれの経には、それをよりどころの経典とする各宗派がある。法華経には日蓮宗、浄土教には浄土宗各派といった具合だ。佐々木は、大乗仏教の発展は一神教の方向へ向かうと考えているようで、浄土宗がその先端にあるということになる。こうした考えは大拙も抱いていたように思う。一方、今日、浄土宗とならんで勢いのある禅宗は、一神教とはもっとも対極にあるもので、ある意味釈迦の仏教に通じるところがある。つまり自力で悟りをめざすところだ。禅宗は、浄土宗と違って、帰依すべき仏をもたず、また救済されることも願わない。禅が目ざすのは生死の超越であって、それは釈迦がめざしたところと同じものということらしい。

仏教では、「一切衆生悉有仏性」という言葉がある。これは「涅槃教」の言葉で、あらゆる生き物に仏性が宿っているという意味である。仏教は、そのスタートラインにおいては、悟りをひらいて阿羅漢になることをめざしていたが、大乗仏教においては、仏になることをめざすようになった。なぜそんなことができるのかといえば、人間は無論あらゆる生き物に仏性が宿っているからで、自らのなかのその仏性にめざめて、仏になるべくがんばればやがて成仏することができると考えるようになった。成仏という言葉も仏教用語だが、これはもともとは、「仏に成る」ことを意味していたのである。

佐々木は、仏教の将来は、いまとは大分違ったものになるだろうと考えているようだ。信仰の基礎になっている世界観とか人間観が、そのままの形では維持できない。だから壮大な世界観を含んだ宗教体系としては、存続できないだろう。ではどういう形をとったら宗教として生き残れるのか。どんな時代においても、人間の悩みは尽きないだろうから、その悩みにストレートに向き合うような形の仏教のあり方が主流になるだろう。そういうあり方はおそらくカルト集団のような形をとるようになるのではないか。佐々木の主張を読んでいると、どうもそんなふうに思わせられる。



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