日本語と日本文化
HOME | ブログ本館東京を描く日本の美術日本文学万葉集プロフィール | 掲示板




日本人とドイツ人その二


前稿でイアン・ブルマに触れながら、先の戦争への向かい方をめぐる日本人とドイツ人の共通点と相違点について言及した。ここでは小生なりに、日独両国人の共通点と相違点を述べてみたい。まず、共通点であるが、両国人ともこの戦争の時期を本来の国のあり方から逸脱した時代だったと捉えていることだ。中には、極端な言い分もあって、この時代を賛美する者もいるが、それは例外あるいは少数派であって、ほとんど大部分はこの時代を、本来の国のあり方から逸脱した異様な時代として、マイナスに捉えていると言ってよい。

ドイツの場合には、1933年から1945年までの12年間を、ナチスのごろつきどもが跋扈して、好き放題なことをやった、つまり世界中から責められても仕方がないような悪行を重ねた、そういう異様な時代だったと認めたうえで、ドイツ人のすべてがそれを支持したわけではないし、また積極的に協力したわけではないとする。大部分のドイツ人は、ナチスのやり方に眉をひそめていたのだし、中には公然・非公然に、ナチスに反対した者もいた。それゆえこの時代のドイツ人を、十把一からげにして責めるのはフェアではない、と考えている。この時代のおかげで、ドイツという国あるいはドイツ民族は、過去にさかのぼってろくでもないものと烙印を押されているが、それは間違った見方だ。ドイツには、ゲーテやワグナーに代表されるような輝かしい時代もあったのだ。トータルとしてのドイツおよびドイツ人は、偉大な歴史を持っていると言ってよい。その偉大なドイツの歴史が、わずか12年間のナチスの時代によって台無しになるのはしのびない。ドイツ人は、ナチスの時代は、本来のドイツらしさからかけ離れた異様な時代と受け止めて、ドイツ本来の歴史にもっと誇りを持つべきだ。こういう考え方が、大方のドイツ人に共通したものなのではないか。

日本の場合には、ナチスのような明確に判別される悪の主体がないために、時代区分も明確さを欠かざるをえないが、満州事変以後敗戦までの14年間を、軍国主義が跋扈した時代とするのがおおよその捉え方である。その時代について日本人は、ドイツ人がナチスに罪をかぶせたと同じように、軍国主義勢力に罪をかぶせた。ドイツの場合と異なって、ナチスのような一勢力が権力を略取したわけではなく、なんとなく権力全体が軍国主義化したという違いはあるが、とにかく時の権力が暴走したおかげで、日本という国は道を誤った、というふうに大部分の国民は受け取っている。その受け取り方は、国民の間に強烈な感情を植え付けた。その感情とは、権力に戦争へのフリーハンドを与えれば、権力はまたぞろ無謀な戦争を始めるに違いないという確信のようなものと結びついている。その国民の間の確信が、未だに九条を中心にすえた憲法改正を、実現させていない原動力になっている。ドイツ人がナチスを責めるように、日本人は軍国主義者を、国を過つものとして責めるのである。

軍国主義時代の十四年間を、もっともわかりやすく定義したのは、作家の司馬遼太郎だ。司馬はこの時代を異胎の時代と言った。異胎とは、あるべきものとは異なった、いわば異物のようなものをさす。本来の母親とは違うものから生まれたというこの意味の言葉は、この時代が、日本史の正統な歩みから逸脱したものだという認識を反映している。実際司馬は、日本の近代史は明治維新に象徴されるのであって、前向きな精神が国を支配しているような、若々しい国のあり方が、日本本来の国のあり方だと捉えたうえで、この十四年間を本来の国のあり方から逸脱したものとして、それを異胎の時代と言ったわけだ。その異胎の時代について語ることは、意味がないこととして、司馬はこの時代について語ることを憚った。それはある意味、都合の悪いことには目をつぶる、あるいはなかったことにする、という日本人の心性を代表した態度だったと言えなくもない。

以上のように、ドイツ人も日本人も、先の大戦の時代の自国のあり方を、自国本来のあり方から逸脱した異様の時代と捉えたうえで、その時代を誤った責任を、ナチスや軍国主義者という国の一部の勢力になすりつけて、大方の国民は罪を逃れようとしてきた、と言えるのではないか。しかし、その罪を逃れようとする意欲は、ドイツ人と日本人とでは、聊か異なる様相を見せた。ドイツ人の場合には、すくなくとも表向きは、ナチスの犯した罪を国民全体が引き受けて、周辺国への謝罪を続け、なんとかして国際社会(ドイツの場合にはヨーロッパということになる)に受け入れてもらおうとする努力がともなった。その努力はある程度報われ、ドイツはいまやEUを主導する立場にまで上り詰めた。

対して日本人は、司馬がいみじくも代表しているように、都合の悪いことには目をつぶる、あるいはなかったことにするといった態度をとり続けた。そんな態度は、自分自身にしか意味を持たないわけで、実際日本人はいまだに、性懲りもない民族だと国際社会(日本の場合には、東アジアとアメリカということになる)から受け取られている。アメリカの場合には、日本から積極的にゴマをするということもあって、大目に見てやろうという態度をとっているが、東アジアの諸国、特に中国と韓国は、日本への不信をいまだに強く抱いている。その不信が時折表面化し、さまざまな軋轢を生んでいることは周知のとおりである。

日本が東アジアの諸国に、ドイツがヨーロッパ諸国に対して示すほどの神経の動きを示さないのは、それなりの理由がある。その一つとして、日本が戦争に敗けたのはアメリカであって、したがって勝者のアメリカには屈従する理由があるが、東アジアの諸国、中国や韓国に負けたわけではないという事情がある。韓国などは、もともと日本の植民地だったものが、日本が戦争に敗けた反射的効果として独立をかちとった。そういう主体性のない国のクセに、日本に対してあたかも戦勝国のような面をするのはけしからぬ、と多くの日本人は思っているに違いない。その思いは、妾に逃げられた旦那の気分に通じるものがある。逃げた妾が勝手なことを言いくさる、というのが旦那としての日本人の素直な反応なわけである。

中国についていえば、日本は中国との戦争に敗けたわけではない。勝ったわけでもないが、すくなくとも中国に敗戦したという認識を大方の日本人はしていない。もしアメリカとの戦争に敗れずに、そのまま中国との戦争が続いておれば、日本は中国に勝った可能性が高い、と多くの日本人は考えているに違いない。だから中国に対しては、アメリカに対するように卑屈になる必要はないということになる。それに加えて、戦後中国が本土と台湾とに分裂し、本土の政権とはかなり長い間交流がとだえていたことの影響もある。交流が始まって平和条約を結ぶ段になっても、中国側から日本の戦争責任を追及する動きはなかった。日本はそれをいいことに、自らの戦争責任をあまり深く考えずにすんだ。それが、日本が無責任だと責められる理由にもなった。日本人の間で流行の兆しをみせている歴史修正主義が、そうした動きをややこしいものにしている。日本人には、都合の悪いことを、本当になかったものと思いこむ、特別な才能があるように、見られるのである。

自分にとって都合の悪いことはなかったと思い込む一方、自分が受けた被害については、いつまでも忘れない。日本人は、広島や長崎で、いかにひどい目にあわされたか、情熱を込めて話すのは好きだが、南京虐殺や従軍慰安婦の問題については、なんだかんだと理屈をつけて責任を逃れようとする。そのように受け取られているというのが、悲しい現実である。前稿でとりあげたイアン・ブルマもそう言う見方をしていた。



HOME日本とドイツ次へ






作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2008-2020
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである