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冷戦と講和、ドイツの場合2:日本とドイツ


西ドイツの講和問題は、西ドイツのNATOへの加盟を前提としていたことから、講和が発効すると、さっそく西ドイツの再軍備が課題となった。この点では、戦争の放棄と戦力の不保持を定めた憲法を持つ日本の講和問題とは決定的に異なる。日本は非武装のまま講和をすることになったのだが、ドイツは再軍備を条件に講和を実現したのである。そんなわけであるから、日本がその後、再軍備に熱心でなく、またアメリカに再軍備を迫られても、なるべくそれをサボタージュしようとする動きが見られ、そうした動きのなかで、なし崩し的に再軍備が進んでいったのとは異なり、西ドイツの場合には、本格的な再軍備が進んでいった。

日本の再軍備が堂々と進まなかった最大の理由は、国民の反戦意識と反軍感情が強かったためだ。国民の大多数は、もう戦争はこりごりだという強い気持ちを持っており、戦争につながりかねない動きには、アレルギー的な反感を示した。そうした国民感情が、自衛隊の本格的な軍隊化への抵抗をもたらしたといえる。憲法を改正して正式な軍隊を持ちたいとは、自民党政権の宿願であるが、その宿願がいまだに実現していないのは、国民の反軍感情が完全に払しょくされていないためである。

西ドイツの場合にも、日本と同じような反戦意識と反軍感情がなかったわけではない。国民の間のそうした反軍感情は、アデナウアーが早急な再軍備をはかろうとした時に噴出し、それが議会にも反映して、再軍備に関する審議がなかなか進まないという状態に陥った。そこでアデナウアーは、西ドイツの再軍備を進めるためには、国民を納得させる必要に迫られた。アデナウアーにとって幸運だったのは、最大野党のSPDが、再軍備に対して絶対否定の態度をとらなかったことだ。かれらは、ドイツが失敗したのは、軍の暴走を許したことにあり、その原因は、軍を国家の中の国家のような自主性をもった組織にしていたことにあると考えた。そこで、軍を国家意思に従属させ、その暴走を許さないようにするためには、シビリアン・コントロールを徹底することが重要だと考えた。言い換えれば、シビリアン・コントロールを確立しさえすれば、再軍備には反対しないというわけである。

そういうわけで、西ドイツはアデナウアーの与党とSPDの野党が共同して、シビリアン・コントロールの下での軍隊のあり方を模索し、その上に立って再軍備を進めていこうという、議会内のコンセンサスが成立した。再軍備は、講和の絶対条件だったから、講和をして主権を回復するためには、避けて通れなかったということもある。西ドイツでは、憲法改正は議会の議決だけでできたから、議会の総意が一応出来上がれば、それにそって憲法も改正できたし、再軍備も進んだわけである。

そのシビリアン・コントロールは次のような内容のものであった。まず、軍に対する命令権。これは元首たる大統領ではなく、平時においては国防大臣、戦時においては首相に与え、議員内閣制を通じて議会のコントロール下に置く。議会は軍事予算の決定権や高級軍人にかかる任命の承認権を持つ。また防衛緊急事態決定権を持つ。次に、防衛刑事裁判所、つまり軍法会議に相当するものは、軍ではなく司法省の管轄とする。更に、軍人に対して基本的人権を保障する。また、軍人にも、軍人の地位のまま政治家に立候補することを可能にする。軍人をできるだけ、一般の国民と同等に扱うことで、軍隊の特殊性をやわらげようというのである。

こうした制度的措置を整えたうえで、やっと連邦軍が創設されたのは1955年11月12日のことであった。連邦軍は、当初は志願兵によって編成されたが、翌1956年の憲法改正によって、徴兵制に変更された。徴兵制は、18歳から45歳までの男子全員に適用された。しかし、軍人に基本的人権を認めることとのパラレルな措置として、良心的兵役拒否の制度が導入された。徴兵されたものは、この規定にもとづいて兵役を拒否することができるかわりに、社会奉仕活動等代替役務に従事することとされた。

かくして創設されたドイツ連邦軍は、最大規模では49万5千人の兵士と17万人の文民職員を擁する巨大な軍隊組織となって、NATO軍の中核部隊を形成し、NATOの集団防衛的な軍事行動に深くかかわるようになっていく。

この西ドイツの再軍備と日本の再軍備を比較すると、顕著な相違がある。いままでにも触れて来たとおり、日本の再軍備はなし崩し的に、いわば裏口からなされてきた。実質的な再軍備である警察予備隊の創設をマッカーサーから命じられた時に、吉田茂は、これは再軍備ではなく、国内の治安を任務とする警察組織だと強弁した。その強弁は、国内向けのものであるとともに、対外的なものでもあった。国内向けには、再軍備に強く反発する国民への配慮があり、対外的には、日本の再軍備に脅威を感じている近隣諸国に向って、日本は再軍備はできない、憲法がそれを禁止しているからだというアピールの意思があった。じっさい吉田茂は、本音としても、日本の本格的な再軍備は考えていなかった。安全保障はアメリカにまかせ、日本はなるべく軽武装のまま、経済復興に邁進したい、というのが吉田の本音だったのである。

それに対して西ドイツの場合には、再軍備したうえで、それをNATOに従属させることが講和の条件だったという事情もあり、再軍備を本格的に考えざるをえない状況にあった。一部には、オーストリア同様永世中立を条件に東西ドイツを統一しようという意見もあったが、厳しい冷戦のもとでは、それは空疎な主張として響いた。西側の一員として生きることしか、ドイツの生きていく道はないというのが、すくなくとも政治家たちのコンセンサスになった。そうしたコンセンサスが、西ドイツを有数の軍事国家にしていったわけである。

いずれにしても、再軍備の問題は、国民全体の意向と深く結びついている。日本の場合には、その国民全体の意向が、本格的再軍備への反対となってあらわれた。それに対してドイツの場合には、再軍備への国民の反対感情がそれほど強くなかったということか。また、日本の場合には、憲法の改正には国民投票は不可欠であり、それが再軍備への歯止めとなっている事情がある。西ドイツでは、憲法改正は議員の議決だけでできることになっており、議員のうちにコンセンサスができれば、それが実現しやすいといった事情がある。とはいえ、国民の意向を無視する形で、西ドイツの再軍備が進んだということではないだろう。

また、自衛についての考え方も、日本と西ドイツでは大いに異なる。日本では、憲法解釈の是非という問題があるにかかわらず、少なくとも現実問題としては、自衛権は認められている。しかしその自衛権は、日本が攻撃された時に反撃するための個別的自衛権と解釈され、集団的自衛権は認められないというのが大方のコンセンサスになっている。なしくずしに整備してきた軍事力を実際に用いることができるのは、個別的自衛権を行使する場合に限られる、というのが日本の立場であった。それに対して西ドイツの場合には、NATO軍に従属する形で、集団的自衛権を行使することが、ドイツ連邦軍の主要な任務になっている。こうした違いは、両国の再軍備をめぐる事情に大きく左右されたのだと言える。日本は西ドイツ程厳しい国際状況に直面せず、したがって個別的自衛権だけ考えていればよかったという事情があったのである。



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