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新憲法、日本の場合:日本とドイツ


日本国憲法の制定は、対日占領政策としての戦後改革の総仕上げのようなものとして見えるが、実は、終戦後まもなく、戦後改革が本格化するまえに(1945年10月4日)、日本政府に対してマッカーサーから新憲法制定の指示が出されていた。その趣旨としては、第二次世界大戦における日本の敗北を真剣にうけとめ、今後二度と戦争をおこさないための保証を、憲法を通じて国際社会に約束させることにあったと思われる。そういう意味では、日本の武装解除と、未来に向けての非軍事国家としての歩みを、世界に向って約束させることに主な力点があった。勝者にとっては敗者の武装解除、敗者にとっては勝者の意向にそって未来に向かって不戦を誓うこと、それが新しい憲法に期待されたことだったといえる。

ともあれ、マッカーサーはその時点では、日本人に自主的に憲法を作らせようと考えていたことになる。その指令を受けたのは、東久邇内閣の国務大臣であった近衛文麿で、かれは早速憲法改正の準備にとりかかるが、東久邇内閣が総辞職してしまうと、後任の幣原内閣が、松本烝治国務大臣を主任とする委員会を発足させた。この松本委員会が、日本側の憲法草案を用意するのであるが、それが新聞にリークされるや、その内容をめぐって喧々諤々の議論になった。あまりにも保守的な内容だったからである。日本人からの批判もあるなかで、もっとも深刻な懸念を感じたのはマッカーサーだった。マッカーサーは、これでは日本人に新憲法を作らせることは出来ないと判断し、自分のほうでそれを作成したうえで、日本側に受け入れさせる戦法をとった。これが「押し付け」憲法の、なれそめである。

マッカーサーは、GHQ民政局長ホイットニーに憲法草案を作らせたが、その際に、基本原則として、象徴天皇制、戦争放棄、封建的特権の廃止を盛り込んだ「マッカーサー・ノート」と呼ばれるものを示した。このうち、象徴天皇制と戦争放棄は一体のものとして考えられていた。マッカーサーは、日本に天皇制を残したいと考えていたが、そのためには、天皇と軍国主義の結びつきを断ち切り、天皇制があらたな軍国主義の母胎となる懸念を取り除く必要があると考えた。というのも、当時は、ソ連を中心に天皇制の廃止を求める声が強く、そうした声をなだめる必要からも、天皇制と軍国主義との結びつきを断ち切る必要があった。戦争放棄はそのもっとも手っ取り早い方法である。日本が憲法で戦争放棄を宣言すれば、天皇制が新たな軍国主義を招く懸念はなくなる。ということは、戦争放棄を盛り込めば、天皇制に強く反対する理由がなくなる。そういう判断から、象徴天皇制と戦争放棄を一体のものとして打ち出したと考えられるのである。「考えられる」というのは、完全な確証がないからだが。

ホイットニーは1946年2月13日に、吉田茂外相以下日本政府代表者を呼んで、憲法素案を示した。吉田らは、先に提出していた松本案への米側の反応を聞けるものと思っていたところ、全く違うものを出され、しかも緊急に答えを出せとせまられて大いに驚愕した。驚愕する吉田らに向って、ホイットニーは、天皇の処罰を要求する動きがあるなかで、天皇制を救うにはこれしか方法がないと言ったと伝えられる。吉田らもよく考えてみたら、ホイットニーの言うとおり、天皇制を救うにはこれしかないと思ったのだろう、持ち帰って日本側の説得にかかり、わずか10日後には、この草案を基本的に受け入れると回答するのである。それ以後、草案の細部についての修正協議が始まるが、象徴天皇制と戦争放棄の部分については、基本的なことは変わらなかった。

こうして、新憲法は、1946年10月7日に帝国議会を通過し、11月3日に公布された。施行は翌1947年5月3日である。その結果日本は、象徴天皇制という形ではあるが、国体の中核として多くの日本人に受け取られていた天皇制を存続させることになった。その一方で、世界で初めて戦争放棄を、憲法で宣言した稀有な国としての評判を得ることとなった。もっとも、そうした評判をよそに、この憲法を喜ばない勢力は存在したばかりか、近年ではますます政治的影響力を強めている。時の自民党政権は、この憲法を押し付け憲法だと言って罵倒し、日本の国柄に相応しい自主憲法を作ろうと国民に呼びかけている。もっとも大多数の国民は、そうした主張に賛同しているわけではない。その最大の理由は、日本の政治指導者たちへの不信にあるのだと思われる。日本国民は、政治家たちに戦争へのフリーハンドを与えれば、またぞろ無責任な戦争を始めるのではないかと、疑っているのである。

この憲法の持つそもそもの意義は、敗戦国である日本の武装解除を、国際的に確認することにあったと言ったが、そう言う意味ではこの憲法には、一方的な宣言というかたちではあるが、国際条約としての側面もある。日本は、未来にわたって自ら戦争を仕掛ける国にはならないと約束することで、国際社会に一定の場を占めることを許されたわけである。

象徴天皇制、戦争放棄とならんでマッカーサー・ノートの基本原則とされた封建的特権の廃止は、民主主義の徹底というかたちで表現された。民主主義の徹底は、政治システムにおける民主的手続きと基本的人権の尊重という形をとった。政治システムについていえば、明治憲法において絶大な政治的権力をもっていた天皇が非政治化されたために、イギリスの議会制民主主義に近い制度が実現することとなった。その議会制民主主義が、政党政治と結びついて、日本流の民主主義政治が、あらたな政治的伝統を作っていくことになる。一方、基本的人権の尊重ということについては、伝統的な自由権のほか、社会権とよばれるものまで取り入れ、日本国憲法は、世界でも模範的な法典と目されるほどの進歩性を持つようになった。

以上を踏まえて、日本国憲法の基本的な特徴を、民主主義と平和主義に求める意見が有力である。民主主義は、国民の政治参加と基本的人権の尊重を内実とし、平和主義は戦争の放棄と武力の放棄を内実とする。このうち、民主主義と戦争の放棄はこれまでまがりなりにも守られてきたといえるが、武力の放棄については、憲法の規定と現実とは相反した事情にある。自衛隊は、一時は憲法違反だといわれたものだが、今日では、多くの国民はそうは思っていない。そこに独特なねじれが生まれている。そのねじれが、憲法への欲求不満を生み、自主憲法を作ろうという動きにつながっているのである。



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