日本語と日本文化
HOME | ブログ本館東京を描く日本の美術日本文学万葉集プロフィール | 掲示板




戦争責任、ニュルンベルグ裁判:日本とドイツ


連合国側には、終戦以前からすでに、ドイツの戦争責任を犯罪として追及しようとする動きがあった。その動きには二つの流れがあって、一つはドイツという国家を戦争犯罪の主体として裁こうとするものであり、もう一つは、国家ではなく、戦争を実際に遂行し、その過程で戦争犯罪を実行した個人を、個人として裁くべきだというものであった。前者は、アメリカの政治家モーゲンソーによって代表されるもので、「モーゲンソープラン」とも呼ばれており、戦時中はこれに共鳴するものが多かったのだが、戦後は、その影響力を弱め、代わって、後者の流れが有力になった。ニュルンベルク裁判を頂点とする、対独戦争犯罪追求裁判は、基本的には個人の犯罪を追及するという形をとったのである。

対独戦争犯罪追求裁判をおこすにあたっては、何をどのような理由で裁くかについて、広範でかつ合理的な合意ができていないという事情があった。伝統的な国際法の枠組には、個別具体的な犯罪行為を罰する規定はあったが、国家による非人道的な残虐行為や、戦争そのものを引き起こした責任を問うという考え方はなかった。ところが、この第二次世界大戦という、人類史上未曽有の惨事を引き起こした責任をどのように追及するのかということは、避けられない課題として立ちはだかっていたし、またナチスによる非人道的な行為としてのホロコーストの衝撃があまりにも大きかったので、これをどのように裁くかということも、大きな課題であった。結局連合国側は、戦争を引き起こした罪としては平和に対する罪、非人道的なホロコーストについては人道に対する罪、という新しい犯罪概念を創り出して、その概念に基づいて戦争裁判を裁くという方針をとった。しかし、そうした法概念は、ニュルンベルク裁判のために急遽作られたという色彩が強く、罪刑法定主義や刑の不遡及の原則から逸脱しているとの批判を免れなかった。そういう状況の中で、連合国は、ニュルンベルク裁判に臨んだのである。

裁判の構成が、裁判官、検事、被告からなることは通常の刑事裁判と同様である。問題は、裁判官と検事とが、四つの連合国構成国、米英仏ソから出されているということだった。裁判というのは、基本的には法の正義を実現するものであるが、裁判官と検事の出身を戦争の勝者である米英仏ソの四か国にしぼったことは、その政治的な性格を浮き彫りにさせる効果を持った。これら戦勝国が、戦勝国としての優位な立場を利用して、敗戦国の指導者を裁いた極めて政治的な裁判ではないかとの批判を、後々にまで強く受けることになったのは、裁判のこうした構成に由来するともいえる。その点では、日本に対して比較的中立の立場だったインド人の法律家を参加させた東京裁判に比べても、ニュルンベルク裁判の政治的性格は、際だって見えた。

被告としては、24人の戦争指導者が指名された。この24人のそれぞれについて、平和に対する罪、通常の戦争犯罪、人道に対する罪に加え、共同謀議への参加の度合いが認定された。その結果、12人が死刑、3人が終身刑、4人が有期刑、3人が無罪となり、残りの2人は自殺あるいは訴追免除となった。死刑になった全員は、人道に対する罪を厳しく認定されており、ニュルンベルグ裁判の焦点がホロコーストをはじめとしたナチスの人道に対する罪にあったことを強く感じさせる。その点では、人道に対する罪をほとんど問われず、もっぱら平和に対する罪によって死刑判決を出された東京裁判の被告たちと大きく異なる。

しかし、その人道に対する罪の概念には、矛盾したところもあった。その最も大きな矛盾は、この罪をもっぱら敗戦国の指導者に負わせて、戦勝国の指導者が行った人道に対する罪は不問に付したことだ。たとえば米英による都市の無差別爆撃による一般市民の虐殺とか、スターリンによる自国民の大量殺害などである。また、平和に対する罪ということでは、ヒトラーと示し合わせてポーランドに侵攻し、その領土を掠め取ったまま頬かぶりしているソ連の指導者たちも、その責任を免れないといったこともあった。ソ連については、ポーランド人将校を大量に虐殺したカティンの森事件の責任をめぐって、一時はそれをナチスのせいにしていたが、実はソ連によるものだと暴露されたのちも、ついに追及されることはなかった。そんなわけでこの裁判は、勝者による勝者に都合のいい裁判であって、法の正義を実現するというよりは、戦勝国による政治的報復だとの批判を後世まで受けることになった。もしこれが前例になれば、戦勝国には敗戦国を一方的に裁く権利があり、敗戦国には法の正義を期待する権利はないということになりかねない。

ニュルンベルク裁判は、被告のいずれもが平和に対する罪を問われたことから、A級裁判とも呼ばれた。A級とは、平和に対する罪への認識番号のようなもので、罪の軽重を意味するわけではない。その他に、通常の戦争犯罪および人道に対する罪の訴求を目的とした裁判が、それぞれの占領地区ごとに行われた。西側占領地区ではあわせて約5000件の裁判が行われ(アメリカ占領地区では引き続きニュルンベルクが裁判の舞台になった)、806人が死刑判決を受けた。ソ連占領地区では約45000人が裁判にかけられたというが、そのうちどれくらいの人数が死刑判決を受けたか、不明である。これらの裁判にはかなりな無理も指摘され、なかには明らかな冤罪もあったことから、概してドイツ人には評判が悪かった。ドイツ人たちは、この裁判が比較的身近な人々を巻き込んでいることもあって、大きな関心を寄せたようだが、その関心が強かっただけ、裁判の不当性には敏感に反応したのだと思われる。



HOME日本とドイツ次へ






作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2008-2020
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである