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占領政策、日本の場合:日本とドイツ


連合国の対日占領政策は、ドイツの場合とは大分趣が異なっていた。まず、事実上アメリカの単独占領であったこと、それに対応するかのように、日本に対して懲罰的な意図を露骨にもった国が存在せず、比較的温和な占領政策がとられたことだ。温和といっても、相対的な意味合いであって、日本を完膚なきまでに叩きのめし、二度と連合国の脅威にならぬように弱体化しようとするような露骨な意図を振りかざさなかったという意味であって、日本を再び軍国主義国家としてよみがえらせないようにしようとする配慮は働いていた。その配慮が、一連の戦後改革につながり、その総仕上げとして日本国憲法が生まれたわけだ。それをどう評価するかについては、日本国内でもいまだに意見の相違があり、一方で日本の戦後改革を、日本が欧米並みの民主主義国家になるうえで、必要でかつ望ましいものだったと積極的に評価するものがある一方、戦後改革によって日本は伝統的な国体を毀損されたとし、その象徴としての憲法に敵対する勢力もある。

その対日占領政策の持った歴史的な意味については、これをどう評価するかは別として、日本社会を根本的に変えるほどのインパクトを持ったと言ってよい。それは、戦後改革を厳しく批判する者においても、いまさらその成果をひっくり返すことは出来ないと認めざるをえないほど、戦後の日本社会に根付いたということだ。もっとも、それは表層でのことであって、深層においては、日本はいまだ封建時代と根本的に異ならないイデオロギーによって規定されているといったシニカルな見方もあるが、そういう見方も呑み込むような形で、戦後の日本社会が戦前の軍国主義的・半封建的体制から脱却したことは、否定しえない事実だと思う。

この日本の戦後改革を主導したのは、対日占領当局であるGHQであった。このGHQにおけるマッカーサーの権威は絶大なものと思われるが、そのマッカーサーは、いまの時点からみれば、かなりリベラルな視点から日本の戦後改革を主導した。彼の下でGHQの占領政策のスタッフとして集まって来たのは、ニュー・ディーラーと呼ばれるような改革主義者たちであったし、その中には明らかに社会民主主義的な傾向をもった人物とか、ハーバート・ノーマンのようなコミュミストまで含まれていた。こうした左がかった勢力が日本の戦後改革を主導したという事実は、非常に意義深いものがあると思われる。彼らの主導のもとで、日本は、それまでの軍国主義的・前近代的な社会から、平和主義的で民主主義的な社会へと、移行する推進力を与えられた。つまり日本は、外国による占領という不名誉な事態をバネにして、近代国家へと生まれ変わるきっかけをもらったといってよい。

その点、ドイツの場合はまったく異なっていた。ドイツの占領政策を担当したのは、アメリカについてはクレイ将軍であったが、クレイはマッカーサーとは異なって、ドイツの社会的・経済的・文化的改革にはほとんど関心を示さなかった。また、クレイの下に集まった占領スタッフの大部分は、保守的な自由主義者たちであって、本気でドイツ社会を変革しようなどとは、まったく思っていなかった。彼らの関心は、非ナチ化を進めることであって、その過程で、ナチの戦争責任を追及することだった。アメリカ占領下のバイエルンやヘッセンで、非ナチ化がもっとも徹底して行われたのは、そういう背景にもとづいている。アメリカがそういうふうであるから、ドイツでは、日本の場合のような改革の動きはみられず、ドイツはほぼワイマール時代と同じ体制を引き続き維持していくことになる。だからドイツには、敗戦による社会的・経済的・文化的断絶はないといってもよい。敗戦がドイツ社会にもたらしたのは、国土の大規模な喪失であり、民族の分断だった。もっとも国土の喪失と民族の分断は、これ以上ひどい事態が想像できない程の、最悪の結果だったと言えなくもないが。

GHQによる日本の戦後改革は、社会的・経済的分野と文化的分野とに大別できる。社会・経済的分野での改革としては、財閥解体・農地解放・労働運動の開放が代表的なものであり、文化的分野での改革としては、教育制度の改革や司法制度の改革が代表的なものである。これらの改革には、それまでの日本の歴史に接続するような要素も見られたが、大部分は、それまでの日本の歴史から断絶し、いわばとってつけたようなものも多かった。こうした断絶を理由に、いまでも一部の保守的な日本人のなかには、戦後改革を厳しく批判し、それの集大成といえる日本国憲法に敵対している勢力も存在するのである。そうした勢力には、日本国憲法をただちに廃棄し、明治憲法の復活を主張するものもいるが、さすがにこうした主張は、アナクロニズムを超えて、有害な妄想であると大多数の日本人に受け取られるほど、日本の戦後改革は、日本人の生活や思想に強力な作用を及ぼしたということであろう。

日本の戦後改革を、社会的・経済的分野で大きく推進したグループは、ハーバート・ノーマンによる日本社会の分析を大いに参照したとされる。ノーマンは戦前からの日本研究者であったが、その研究姿勢は、日本の学者グループ講座派と共通するものが多かった。講座派は、戦前・戦中の日本社会を、基本的には半封建主義的な社会としたうえで、それの近代化を最大の課題としていた。講座派がいう近代化とは、ブルジョワ革命の遺産を日本でも適用することで、社会的・経済的分野での資本主義の推進と、政治的・文化的分野での民主主義の徹底を要請していた。ノーマンはそうした講座派の主張を、ソフィスティケートされた形で示したわけだが、そのノーマンの主張を、GHQの主流派が適用したというのが、日本の戦後改革の基本的特徴といえるのではないか。

こんなわけで、日本の戦後改革は、ブルジョワ革命の徹底と言い換えることもできるほど、社会的・経済的・文化的分野にわたる民主化を特徴としていた。この民主化を通じて、日本は他の欧米諸国並みの民主義的・資本主義社会に近づいて行ったのである。



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