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占領政策、ドイツの場合:日本とドイツ


ドイツを分割占領した四か国の、ドイツに対する占領政策には当初かなりの相違が認められた。というのも、四か国からなる連合国管理理事会は、立法権を持つに過ぎず、またそれも形骸化しがちな中で、実際の政策執行は、各占領地域の軍政長官の権限にゆだねられたからである。各軍政長官は、それぞれ出身国の意向を強く反映して、それぞれが独自の政策を追求する傾向が強かった。したがって戦後のドイツでは、四つの占領地域で、それぞれ異なった性格の統治が行われたといってよかった。ドイツ国民は、どの地域に住んでいたかによって、異なる統治に服したのである。

ドイツに対してもっとも厳しい姿勢で臨んだのはソ連であった。敗戦によってドイツが従来の国土の四分の一を失ったことは、先述のとおりであるが、それを主導したのはスターリンであった。スターリンはヒトラーと共謀してポーランドを侵略したのであるが、その侵略した土地をポーランドに戻すつもりはなかった。その土地を永久に自分のものにするかわりに、ドイツから奪った土地を、ポーランドに穴埋めとして与えることに成功した。これはスターリン一人の力だけでなされたことではなかった。少なくともチャーチルの了解を取り付けていたし、ルーズヴェルトも黙認したのだと思う。その理由としては、これも先述したとおり、自国の犠牲をなるべき少なくしたいということであった。スターリンに褒美をやることで、対独戦の戦意を高めようとしたのである。領土不拡大の原則は、国際法の中核概念であって、ルーズヴェルトはその概念を尊重していたといわれるが、打算が理想に打ち勝ったかたちである。

ソ連の対独政策は、大きく二つの特徴をもっていた。ひとつは、対独戦によって消耗した生産力を補うため、ドイツからできるかぎりの賠償を取り立てることであった。この賠償には、人的資源の補填も含まれていた。ソ連は、対独戦によって2000万人以上の死者を出したといい、したがって戦後早速極度の労働力不足に直面した。その穴埋めのために、ドイツ人を補填したわけである。戦後ソ連によって連行され、強制労働を強いられたドイツ人は1000万人を超えるとも言われるが、詳細には不明な部分が多い。注目すべきなのは、この強制労働の対象に日本兵も含まれたことだ。敗戦時満州にいた日本兵60万人がシベリアに連行され、強制労働をさせられたわけだが、これもまた、対独戦での人的消耗のツケを、当事者ではない日本が払わされた形である。スターリンは、当時日本との間で結んでいた不可侵条約を一方的に踏みにじって、対日戦に参加したわけだが、それには、領土の侵略と労働力の獲得という、おまけがついていたのである。

ソ連の対独占領政策の二つ目の特徴は、占領地をソ連にとっての政治的・軍事的緩衝地帯として再編することであった。この目的は、ひとりドイツだけではなく、東ヨーロッパ全体に適用された。ロシア・ソ連は、度重なる西からの攻撃を経験して(ナポレオンとヒトラーはその代表)、西部国境を固めるとともに、できればそこに自国にとっての衛星国とでもいうべきものを誕生させようという宿願を持っていた。その宿願は実現し、ソ連の西側には、多くの衛星国家が生まれた。それらの国家群は、ソ連の政治体制にならった形で統治体制を再編成した。そうして、ソ連を中心とした、社会主義国家圏が形成され、それらが後に西側と向きあう形で、冷戦体制が形成されていくわけである。ソ連によるドイツ占領地域は、やがて東ドイツとして再編され、ソ連の対西側防衛ラインの最前線に位置付けられていくわけである。

ソ連の次にドイツに対して厳しい姿勢で臨んだのはフランスであった。フランスはドイツとの間で長い国境線を持ち、大戦中ドイツによる占領も経験した。ヴィシー政権は対独協力路線をとったが、戦後彼らの正統性ははく奪され、ドイツによるフランス支配は全面的に否定された。そういう中でフランスは、政治的報復の意欲に燃えていたとともに、なるべく高い賠償もさせてやるつもりでもあった。そこには、ドイツを再び強国にもどさず、政治的・軍事的に無害な国にしたいという思惑が強く働いていた。

対独強硬派のチャンピオンはド・ゴールであった。ド・ゴールは亡命将軍であったが、フランス解放後臨時政府の首班となり、戦後の対独政策をリードした。ド・ゴールの野心は、ドイツをふたたび19世紀半ば以前の弱小国家に戻すことであって、そのためにドイツをいくつかの小国に分割するという構想も抱いていた。また、東プロイセンやケーニヒスベルグがドイツからはく奪されたことに倣い、フランスもザールラントやラインラントの事実上の領有をねらった。そうしたド・ゴールの野心を、チャーチルは苦々しく思った。

スターリンが1000万人のドイツ人を強制連行したことにならって、ド・ゴールも60万人のドイツ人を強制収容所にぶちこみ、労働を強制した。そんなド・ゴールのフランスをドイツ人の多くは、自分の力で勝ち取ったわけではない勝利を振りかざして、無理な注文をおしつける嫌な隣人として受け止めた。独仏間には、歴史的に長い確執があったが、第二次大戦後には、その確執が頂点に達したといってよかった。

イギリスはチャーチルの強い意向で、ルール地方を含むドイツの工業地帯を占領したが、ソ連やフランスとは違って、報復主義的な姿勢はとらなかった。それには政権が、チャーチル率いる保守党からアトリー率いる労働党に変わり、内向きの傾向を強めたという事情も働いたが、保守党も労働党も、ドイツをただ搾取するのではなく、やがて予想される共産主義の力に対抗し、その最前線としてドイツを自分の陣営に組み入れようとする態度をとった。そうした傾向は、やがてドイツの復興を優先する政策へとつながっていく。そうした傾向は、アメリカもまた基本的に共有していたといえる。

そのアメリカは、バイエルンなど南部ドイツを占領したが、南部ドイツはナチの拠点としてファシストの影響力が強いところであったから、アメリカ軍当局は、かなり徹底した非ナチ政策をとったりした。一方、ドイツ人の内部から生まれて来る民主化の動きに対しては、抑圧的な態度をとった。総じてアメリカは、ドイツ人自身の政治的な動きには神経をとがらせていた。そういう姿勢は、労働運動への抑圧にもあらわれた。ドイツでは伝統的に、職人組合の力が強く、職人が中心となった労働組合の結成も戦後盛んになされたが、アメリカはそうした動きに一貫して抑圧的な態度をとった。その言い分は、ドイツは占領されたのであって、解放されたのではない、というものだった。アメリカはドイツ人を基本的には信用しておらず、ドイツ人が勝手に政治的な構想を追求することに危惧をいだいた。ドイツの戦後復興は、ドイツ人が勝手に決めるものではなく、アメリカの言いなりになるべきだというのがアメリカの基本的な考えだったのである。その考えかたの特色は、アメリカ流の自由主義をドイツにも根付かせることであり、過度な民主主義への要求は、許されるべきではなかったのである。



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