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敗戦、日本の場合1:日本とドイツ


ドイツの敗戦はヒトラーの自殺によって決まった。それほどヒトラーの力が圧倒的だったということだ。ドイツは、よくも悪くも、ヒトラーと運命を共にしたわけである。一方日本のほうは、天皇の一言で敗戦が決まった。そういう意味では、日本も天皇という個人と、よくも悪くも、運命を共にしたと言えなくもないが、それがあまりきっぱりした印象をもたらさないのは、天皇がその後、戦争責任を取ることがなく、つまり退位することもなく、余生を無事に過ごし、まるで戦争などなかったかのように、自然な生を終えたこともある。

日本は一応君主国であったから、君主である天皇が敗戦を決定することに問題はなかったと言えなくもないが、それにしても当時の政治リーダーたちの無能ぶりは目を覆うようなものだった。かれらは日本という国のリーダーとしての自覚に著しく欠け、冷静な判断力も持ち合わせず、事態が日々に悪化していくのを、ただおろおろとして見ているばかりであった。そんな政治リーダーたちに見切りをつけて、天皇が自ら敗戦を決定することは、ある意味必然のことだったのである。もし天皇が敗戦の決断をせず、事態をだらだらと放置していたら、日本という国は、二度と立ち上がれないほどのダメージを受けただろう。もしかしたら、皇居のど真ん中に原爆を落とされたかもしれない。トルーマンが指導していた当時のアメリカなら、それくらいのことはやりかねなかった。またスターリンは、北海道あたりまで占領したに違いない。もしそうなっていたら、日本もドイツ同様の分断国家になるところだった。

イタリアとドイツが無条件降伏し、次は日本の番だとは誰の目にも明らかだった。大都市への空襲は激しさを増し、沖縄では凄惨な戦いが始まり、夥しい数の国民が無駄な死を死につつあった。そんな状況を前に、陸海軍は互いにけん制しあい、一致団結して難局にあたろうとする姿勢に欠けていた。陸軍は、正気で本土決戦を主張したが、それが何を意味するか、まじめに考えているとは到底言えなかった。軍人の馬鹿げた自尊心を満足させるために、国民を道づれにするとしか言いようがなかった。そんな状況で、ついに最後通牒というべきもの、すなわちポツダム宣言が突き付けられた。そして、それに前後するかのように、広島・長崎に原爆が落とされ、ソ連が不可侵条約を破って対日参戦してきた、もはや絶体絶命の状況に、日本の指導者は立たされたといってよかった。にも拘わらず、当時の政治リーダーたちは、自分自身では、日本の運命を切り開く決断ができなかった。その決断を下したのは天皇自らだったのである。

当時の政治リーダーたちには、かれらなりに、決断を引き延ばす名目があった。かれらにとっては、日本の国体が守られることが、敗戦の最低の条件だった。ところが連合国側は、無条件降伏を求めている。その無条件降伏が、国体の変更を意味しているのなら、降伏などとんでもない。本土決戦でもなんでも、最後まで抵抗し、国体の保持の為に死力を尽くすというのが、彼ら政治リーダーたちの一致した見解だった。ところで、彼らがいうところの国体とは、君主制の存続と、自分たち政治エリートたちの既得権を意味しているに過ぎなかった。どう見ても、正気の沙汰とは思えない。こんなわけだから、政治エリートたちには、事態を打開するための意欲も能力もなかったといってよい。その能力をまだ失わずにいたのは、一人天皇だけだった。その天皇の決断が、日本を敗戦に導いたのである。そのあたりの意思決定プロセスは、敗戦間際に度々行われた、いわゆる午前会議の様子が生々しく伝えているとおりである。

いざ敗戦の決定がなされると、事態は意外に整然と進んだ。敗戦の決定は、ラヂオを通じて全国民に知らされ、また海外にいる軍人や日本人にも、敗戦の決定と武装解除の方針が伝えられた。この方針は直ちに実行された。日本国内は、まるごと連合国の占領下に置かれ、海外の植民地は放棄された。また、すべての帝国軍隊は自主的に武装解除した。天皇の一言で、それまで臨戦態勢にあった日本国が、一夜にして外国の占領下に置かれたのである。唯一の例外は、北方領土をめぐる攻防が続いたことだ。スターリンは、8月8日に対日参戦して以後、満州の日本軍を武装解除してシベリアに連れ去り、その後数年にわたって彼らを使役した。その数は60万にのぼるといわれ、そのうち一割程度が、劣悪な環境に耐えきれず死んでいった。

スターリンはまた、樺太と千島を侵略し、北海道にも侵攻する勢いを示した。さすがに米英の反対もあって、そこまではできなかったが、長い間スターリンの念願だった樺太と千島の略奪に成功した。スターリンには妙な愛国心があって、かつてロシアの領土でありながら、戦争の結果日本に奪われた形の樺太と千島を、是が非でも取り戻したいとの野望を抱いていた。このたびの対日参戦はそのための絶好のチャンスだった。スターリンは、戦争で失った領土は、戦争で取り戻すしかないというリアリズムを理解していたので、その定石にしたがって、日本から樺太・千島を取り戻したばかりでなく、伝統的に日本領として認めて来た択捉以西の北方諸島まで掠め取ったわけである。スターリンの対日参戦の動機については、さまざまな分析がなされてきたが、領土的な野心がもっとも大きく働いていたことは間違いないと思う。ともあれ、スターリンの領土的野心のために、対ソ戦争は、9月8日まで終了しなかったのである。その間は、戦争というよりは、一方的な攻撃を、日本は仕掛けられる羽目に陥ったのである。弱り目に祟り目とはこのことを言うのだろう。



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