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敗戦、ドイツの場合1:日本とドイツ


日独伊の枢軸同盟のうち、ムッソリーニのイタリアがまず降伏し、ついでナチス・ドイツが降伏した。イタリアの降伏は複雑なプロセスを経た。1943年7月25日に、国王と軍が共同してムッソリーニを失脚させるクーデターが起き、バドリオが政権を握ったうえで、同年9月に連合国に無条件降伏したのであったが、バドリオにはイタリア国民全体を代表するような実力はなく、降伏手続きは混乱した。そうこうするうち、ムッソリーニは9月中にドイツ軍によって救出され、北イタリアを根拠地とするドイツの傀儡政権の長に担ぎ上げられる。こうしてイタリアは、二重権力状態に陥り、内戦へと突入していった。この内戦では、ムッソリーニをドイツが応援し、反ムッソリーニ勢力と連合軍が協力しあうという構図となったが、最終的にはムッソリーニの側が敗れた。ムッソリーニが、イタリア人群衆によって吊るされたのは1945年4月28日のことであり、この日を以てイタリアが全面的に降服した形となった。

ムッソリーニが吊るされた日の二日後にヒトラーが自殺した。ドイツはヒトラーによる独裁という性格が強かったので、ヒトラーの自殺が事実上ドイツの降伏を意味した。もっともヒトラーの自殺は、ドイツ降伏にとっての象徴的な出来事であり、実質的なドイツの降伏は、とっくの前から決まっていたという見方もある。ドイツは、スターリングラードの攻防戦に失敗した1943年初めの頃から、対ソ戦を中心とした東部戦線で劣勢に追い込まれるようになる一方、西部戦線においても、1944年6月の連合軍によるノルマンディー上陸作戦成功以降、厳しい戦いを強いられるようになり、東西に兵を割かなければならない状況のなかで、次第に追いつめられつつあった。ソ連側は、東からベルリンに迫り、連合軍のほうも、ドレスデン空襲をはじめとした大規模な攻撃を加えつつあった。ヒトラーが特に脅威に思ったのは、ソ連がベルリンに迫っていることだったと思う。その脅威への絶望的な思いが、ヒトラーを自殺に駆り立てたのであろう。

ヒトラーの自殺については、色々な見方があり、なかには生存説などもあったようだが、かれが愛人のエヴァ・ブラウンとともに自殺したことは、疑いえないと思われている。そのヒトラーの最後の日々を描いた「ヒトラー最後の12日間」というドイツ映画があるが、その映画の描くところが、今日ヒトラー自殺をめぐって大方の了解を集めている見方を反映したものではないか。映画は、ヒトラーがベルリン地下の司令部から地上に上がり、そこで愛人とともに銃撃されたうえで、死体の痕跡をなくすために、ガソリンをかけて焼却されたということになっている。

自殺するにあたってヒトラーは、政治的な内容の遺書を残した。それには、海軍元帥カール・デーニッツを自分の後継者に指名するとあった。デーニッツは、ヒトラーの自殺の翌日に、ドイツ国民への声明を発表し、ヒトラーの死の事実と、自分がその後継者として、ドイツの未来について指導にあたる決意を表明した。しかして、自分が主犯となる政府が率先して、連合国との終戦手続きに臨むことになった。デーニッツを首班とする政府を、その根拠地が置かれた土地の名から、フレンスブルク政府と呼んでいる。

デーニッツは、もしできたら、米英仏とソ連とを離反させ、あわよくば米英仏の力を借りてソ連にあたりたいと考えていた。それゆえ、連合国が求めて来た一括全面降伏ではなく、とりあえずは米英仏相手の部分降服を申し出た。それに対して米英仏側は一蹴する態度に出たため、さすがのデーニッツも矛を収め、まず5月7日に米英仏に対して、5月9日にソ連に対して、それぞれ全面降伏を申し出た。それによって、六年近くに及んだ欧州での第二次世界大戦が、最終的に終わったわけである。

イタリアと違ってドイツは、分割占領という最悪の形の占領を受けた。米英仏ソの四か国が、ドイツを四分割して、それぞれ独自に占領・支配を行ったのである。そのおかげでドイツは、後に東西に国が分裂することとなった。また、国土の四分の一に相当する部分を失うことともなった。イタリアや日本に比べて、ドイツが戦争によって失ったものは、はるかに大きかったのである。それについては、第一次世界大戦から汲み取った連合国側の教訓が働いているとされる。第一次世界大戦においては、ドイツは余力を残した状態で降伏した。そのことで国民の間には、ドイツは本当は負けていなかったにかかわらず、腰抜けの軍人はじめ国家の裏切り者どもが、国を滅亡させたのだという言説がまかり通っていた。これを銃後の一撃説というが、そうした言説に代表されるような空気が、ヒトラーの登場を許した。その二の舞を踏まないためには、今度こそはドイツを、完膚なきまでに弱体化させねばならない。そういう考慮が働いて、連合国側のドイツに対する厳しい姿勢に結びついたのだと言える側面はある。

実際連合国側は、ドイツを徹底的に叩いた。ドレスデンやベルリンは大規模空襲によって徹底的に破壊されたし、インフラの破壊もすさまじかった。また、ソ連は、占領地域に残っていた工業施設をねこそぎソ連国内に運び去った。そんなわけで敗戦直後のドイツは、日本同様、一面の焼け野原といってもよいような状態だったのである。

そういう状態からドイツの戦後は始まった。これは日本と比較して、一段と厳しい条件だったといえる。まず、四か国に分割占領されたうえで、国土の四分の一を(ソ連によって)奪われ、占領下の政治には、ドイツ人の自主性が反映する余地が少なかった。これは間接占領という形で、日本人の統治への参加を広範に認めた日本の場合とは異なり、ドイツでは、占領国による直接統治から始まったからである。それほど連合国側は、ドイツに対する警戒感を強くもっていたのだろうと思う。

デーニッツは、ヒトラーの後継者として連合国へ無条件降伏をしたことでお役御免となり、以後政治の舞台から消える。かれが去った後は、占領者たちが直接ドイツ人を支配するようになったのである。ドイツは、イタリアや日本とは比較にならないほど、過酷な条件から戦後を始めなければならなかったと言えよう。



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