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井上達夫・小林よしのりの徴兵制論議:ザ・議論


井上達夫の憲法改正私案には徴兵制の規定が盛り込まれている。その趣旨を井上は、徴兵制によって戦力の濫用を防ぐためだと言っている。「志願兵制だと、志願する必要などないマジョリティたる国民が無責任な好戦感情に駆られたり、政府の危険な交戦行動に無関心になりやすい。無謀な軍事行動に対してすべての国民が血のコストを払わなければいけないとなると、国民は軍事行動の監視と抑止の責任をもっと真剣に引き受けることとなる」というわけである。

その例証として井上は、アメリカの例をあげる。アメリカでは、「徴兵制でミドルクラス以上の白人がどんどん戦争に行かされたベトナム戦争のときは、大規模な反戦運動が起りました。しかし徴兵制が廃止されると、反戦運動はあまり盛り上がらない。イラク戦争のときも、行け行けゴーゴーでした」。そう言って井上は、「エリートや彼らを支持する有権者たちの無責任な好戦感情を制御するには、エリートとマジョリティ国民および彼らの家族も徴兵しなければなりません」と強調する。

これについて小林は、「要するに、それによって国民が当事者意識を持つということですね。それは民主主義のあり方として正しいですよ」と言って、同調している。

要するに二人は、徴兵制が国民の戦争に対する態度に責任をもたせるようになるから、無謀な戦争をすることがなくなるだろう。国民が戦争に立ち上がる時には、国の安全が深刻に脅かされ、自分や自分の家族の命が危機にさらされているときだけだ。そういう状況での戦争は、国民全体にとって共通の問題になると考えているわけである。逆に言えば、そういう深刻な状況以外で、国民が無責任に戦争に加担することはないだろうと、前提しているわけである。

この考え方には一定の合理性がある。日本国民が全体として合理的な行動をとり、しかも(徴兵制によって)国民ひとりひとりが戦争に深くコミットさせられれば、たしかに無責任な行け行けゴーゴーは起こらないだろうと思う。無責任な行け行けゴーゴーが起るのは、国民のマジョリティが徴兵制のリスクから解放されており、したがって自分の行動に無責任になれる場合だということは十分にありうることである。

今の日本の政治情勢を見ると、安倍政権は東アジアの安全保障環境の悪化をことさらに強調し、日本を普通に戦争のできる国にしようとして、さまざまな策動を弄している。九条改正はその仕上げとなるものだが、安倍政権はその場合にも、徴兵制は導入しないと言っている。徴兵制を導入すると、戦争に対する国民の反対意識を高めて、為政者の戦争をする自由が束縛されると思っているからだろう。国民のマジョリティから徴兵への恐怖を取り除いてやれば、彼らは安心して戦争をしたがるに違いない。どうもそんなふうに思っているようである。

こうした安倍政権のやり方には井上・小林ともども否定的である。安倍政権は徴兵制を導入しないことの理由として、徴兵制が憲法18条が禁じる苦役に当たるからと説明しているが、これは違うのではないかと小林は言い、井上はその理論的な破綻を論理的に説明する。井上によれば、憲法18条が規定する苦役の中には徴兵制は含まれていない。なぜなら憲法は戦争の禁止と戦力の不保持を定めていることの論理的なコロラリーとして、戦争を前提とした徴兵制にはあえて触れていないのだ。だから憲法18条を持ちだして徴兵制を否定しようとするのは、つじつまがあわない、というわけである。

安倍晋三としては、別につじつまをあわせる必要を感じてはいないのだろう。国民のマジョリティにとって受け入れがたい徴兵制を棚上げにすることで、戦争に向けての国民の支持を取り付けたい。その一心で徴兵制は実施しませんとアナウンスしているにすぎないのではないか。

徴兵制は志願制と異なって意に反して兵役を課すのであるから容認できない苦役であるとする主張もあるが、これも現実を踏まえた議論ではない。現実的には、志願制は「経済的徴兵」になっている。つまり貧乏人が生活に迫られて兵役に志願しているのが実態なので、彼らは別に喜んで志願しているわけではない。つまり、経済的な境遇の差が、志願制度を支えているわけで、これは不平等以外の何物でもない。

経済的に貧しい人が兵役に服し、彼らの犠牲の上で、自分たち自身危険とは無縁な人々が戦争を煽り立てる。そういう状況のもとでは、戦争をやめようというモメンタムは働かないだろう。

井上は、徴兵制を憲法に明記すべきだと主張する一方、その唯一の例外として、いわゆる良心的兵役拒否を認めている。井上はその理論的な根拠を縷々説明しているが、なぜ良心的兵役拒否が憲法上の権利として認められるべきなのか、いまひとつすっきりしないところもある。

徴兵制をめぐる議論は、マジョリティとマイノリティとの差異一般についての議論へと発展していき、その延長で沖縄差別とか(自分たちさえよければという)住民エゴの現象に議論が移って行くのだが、そこでも自分たち自身責任をもたないことがらに、マジョリティがいかに無責任になれるかということが問題とされる。だがこれは徴兵制とは直接かかわりのないことなので、ここでは取り上げない。




  
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