日本語と日本文化


井上達夫・小林よしのりの憲法九条論議:ザ・議論


井上達夫と小林よしのりの対談「ザ・議論」の三つ目のテーマは、憲法九条問題である。これについて井上は、憲法九条削除論を唱える。井上は、憲法九条を削除して、安全保障政策は民主的立法にゆだねるべきだと主張する。そうすると戦争への歯止めがなくなるのではないかという疑問が出てくるが、それに対して井上は、憲法九条を削除するとともに、戦力の保持を前提として、その戦力の統制にかかる規定を憲法で明記することで、かえって戦争の抑止が可能になると言う。いまの状況では、憲法九条があるために、戦力統制に事実上憲法の制約が利かない状態になっている。つまり戦力の行使が、何らの制約も受けないままに、なしくずしに拡大していく可能性が生じている。憲法九条を削除して、戦力統制にかかる基本的な事項を憲法に明記することではじめて、民主的な戦力のコントロールができると考えるわけである。

井上は、いわゆる護憲派の欺瞞をつく。護憲派には積極・消極の区別はあるが、一方では憲法九条を守ることが平和のためには不可欠だと言いながら、実際には日本の自衛権を認め、更にアメリカの戦力をあてにしている点では、大差がないというべきである。そんな欺瞞から自由になるためにも、憲法九条は削除すべきなのだと言うのである。削除した上で、自衛権の行使を民主的にコントロールするための工夫を憲法に盛り込んだらよい。そうすれば日本人も、一人前の国民になれるというわけである。

これに対して小林は、井上のようなうるさい議論はしない。庶民感覚で捉えるのである。小林が依拠する庶民感覚は、自衛の為に戦力を保持し、国の独立を守るために戦争をするのはごく当たり前のことだということになる。別に井上のように、こうるさい議論をするまでもない、というわけである。したがって、この問題に関する小林の態度は、きわめて明快だ。憲法九条を改正して、交戦権とそれを実行するための戦力の保持について明確にすればよい、ということになる。

井上も小林も、どの国も独立を守るための戦争とそれを行使する為の戦力の保持を認められているのであるから、日本も又そうした国際的な常識に乗った形で、戦争や戦力の保持について積極的に明確化する努力をすべきだというわけである。

これは、いわゆる常識に訴えている点でわかりやすい議論と言えなくもない。しかしその議論が成り立つためには、必要な前提がある。それは、日本人もまた、合理的な行動をする国民なのだというコンセンサスが、ほかならぬ日本人の中で共有されていることだ。ところがそのコンセンサスが、これまでの日本では共有されなかった。これは事実の問題であって、当為の問題ではない。日本人は合理的に判断し、行動できる国民ではないというシニシズムが、事実として日本人の大多数の中に蔓延していたのである。それが、国の自衛のための戦争とか、戦力の保持について、合理的な議論ができる環境を損なってきたのである。

これには相当の理由がある。先の大戦では、310万人の日本人が死に、それに数倍する日本人がひどい目にあった。だから敗戦後の日本人が、戦争はもうこりごりだと思ったのは無理もない。なぜそんなひどいことになったのか。政治家や軍人などの指導者が無能でかつ無責任だったこともあるが、普通の日本人だって、いけいけどんどんで戦争を後押ししていた。つまり国民全体の頭がおかしくなっていたとしかいいようがない。そんな日本人だからこそ、こんなひどいことになった。だから、そういう事態を二度と経験しないためには、日本人から戦争をする資格をはく奪してしまえばよい。憲法九条はそうした目的にうってつけだ。そう多くの日本人が思ったからこそ、憲法九条は今まで生き残ってきたのではないか。

たしかに憲法九条は、連合国が日本を武装解除する一環として導入されたものだ。だからそれについて文句を言う人の気持ちはわからないではない。しかし事実としては、大多数の日本人が自らの武装解除を受け入れたのである。それは、自分をセイレンの誘惑から守るために船の帆柱に結わえさせたといわれる、あのオデュッセイアを想起せしむる。日本人は自らを縛ることで、二度と馬鹿な振る舞いに及ばぬようにと、自重してきたわけである。

そういう歴史的な背景を考慮しないで、一般的かつ抽象的な見地からこの問題を論じるのは当を得ていないと思うし、また、それを考慮に入れながらもなお、日本が再び戦争をできるようにしておきたいと考えるのは、大部分の日本人がこれまで抱いてきた庶民感情のようなものに反しているのではないか。これまでの大多数の日本人の中に醸成されてきた庶民感情と言うのは、戦争は二度とごめんだ、というものだったはずである。

しかしそうした庶民感情の担い手だった人々がだんだんと少なくなってきたことも事実だ。ということは、多くの国民の間で、戦争へのアレルギーが弱まってきたということである。そうした傾向が今後強まっていけば、やがて日本も戦争へのアレルギーがなくなって、またぞろ戦争へ向かっていけいけどんどんになるかもしれない。

しかし、少なくとも今の時点では、国民はまだ政治指導者に国の運命と自分たち国民の生殺与奪の権を与えようとは思っていないのではないか。考えて見て欲しい。安倍晋三に戦争へのフリーハンドを与えればどんなことになるか。おそらく大多数の日本国民は、安倍晋三にそんなフリーハンドを与えたくないと思っているはずだ。つまり日本人はまだ、先の大戦における苦い経験を忘れていないということだ。

というわけで、この二人の憲法九条をめぐる議論は、いまの日本の平均的な政治意識からだいぶ外れたものになっているようである。

面白いのは、井上が戦争の民主的コントロールと言い、小林が庶民感覚というとき、彼らの議論が日本人の合理的な行動様式を前提にしている点だ。民主的コントロールが保証されるには国民が合理的な決定をしなければならないはずだし、庶民感覚を信頼するためには庶民が合理的に考え、振る舞うことを前提とせざるをえない。ところが彼らは揃いもそろって、民主主義に疑問を呈している。井上は、リベラリズムは民主主義と敵対しないまでも緊張関係があると言っているし、小林に至っては、自分がずっと戦ってきたのは結局のところ民主主義だったような気がすると言っている。

つまり彼らは、自分たちが大して信じてもいない民主主義というものを前提として、自分たちの憲法九条論を主張しているということになる。




  
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