日本語と日本文化


井上達夫・小林よしのりの歴史認識論議:ザ・議論


井上達夫と小林よしのりの対談「ザ・議論」の二つ目のテーマには、主に近代日本の対アジア政策と先の大戦についての戦争責任が取り上げられる。井上はこれをセットにして、日本はアジアに対する侵略責任を認めなければならないと主張する。日本はアメリカを相手にバカな(無謀な)戦争をやったのではなく、アジアに対して不当な戦争を仕掛けたと認めるべきだと言うのである。そうしてこそはじめて、日本はあの戦争に対して批判的な態度をとることができるし、自分もアジアに対してひどいことをしたが、アメリカはそれ以上に日本にひどいことをしたと批判することができるというわけである。

井上は竹内好の「二重戦争観」を引き合いに出して、これを論理的二枚舌だと批判する。竹内は、日本がアジアに対して侵略した責任を認めながらも、欧米との戦争は是認した。その理由を、欧米との戦争は帝国主義国同士の勢力争いであって、どの国もみな平等なのだから、勝った方が負けた方を裁く資格はない、と竹内は言ったわけだが、井上はそれを、帝国主義国によるアジア侵略をどこかで容認していると捉える。つまり、日本のアジア侵略も他国のアジア侵略と同次元のものとして容認したうえで、アジアをめぐる帝国主義国同士の戦争を是認しているというわけである。これでは日本の対アジア侵略とアジアに対する侵略戦争の責任を本当に認めたことにはならない。もともと汚い動機で始めたのであるから、そこにはそもそも道義的に是認できるものはないと考えるわけである。

ともかく井上の戦争責任に対する基本的な立場は、「自分の侵略責任を認めないと、相手を批判する資格がない」というものだ。

これに対して小林は、少なくとも現代に生きて、戦争を知らない世代が、戦争をした我々の祖父たちを責めるのはフェアではないと考える。まず、近代日本の対アジア政策が侵略的だったことは否定できないが、しかし日本としてあれ以外の選択があっただろうかと疑念を呈する。朝鮮にしても満州にしても、日本がこれを侵略しなければロシアがかわって侵略しただろう。それが日本にとってどのような意味を持つか。当時の日本人の立場に立てば、簡単に批判できるものではない。小林はさすがに、(靖国史観を振りかざして)あれは侵略ではなくアジアの解放だったとまでは言わないが、結果的には近代日本のアジア政策について肯定的な見方をしている。

また、先の大戦については、それを戦った我々の祖父たちは、日本の独立のために戦ったはずだ。だから自分には祖父たちの戦いを否定する気にはならない。それなのに、戦争を知らない連中が、戦争を戦った祖父たちを否定するような言辞を弄するのは許せない。とりわけ今の時代に生きている連中が、アメリカの従属国に成り下がって、自主防衛もせず、いわばアメリカの奴隷に甘んじながら、そのアメリカを相手に日本の独立を守るために戦った祖父たちを責めるのは許せない。そう小林は言うのである。

こんな具合に、近代日本のアジア政策とその結果としての先の大戦をめぐる戦争責任の問題では、二人の主張はなかなか交差しない。井上が論理を振りかざして理詰めに話を進めるのに対して、小林のほうは、彼独特の庶民感覚と言うか、感性で受け止める傾向が強いためだろう。

戦争責任をめぐる議論の中でもっともクリティカルなのは、天皇の戦争責任の問題だ。これについて井上は、昭和天皇の戦争責任について厳しい見方をしている。昭和天皇はしたたかな人間で、戦争に積極的にコミットしたにかかわらず、その責任を取ろうとしなかった。自分は昭和天皇を東京裁判にかけるべきだったとは考えないが、少なくとも退位して責任を果たすくらいのことはすべきだった。そう井上は言うのである。

そこまで言うには井上の昭和天皇観が背景にある。先の大戦は軍部の暴走で始まったが、それを止めることができたのは、事実上昭和天皇だけだった。ところが昭和天皇はそれを止めなかった。自分自身が積極的に戦争をけしかけたわけではないが、軍部の暴走を止めなかったことで、戦争を歯止めなく拡大させた責任が昭和天皇にある、と井上は言うのである。

これに対して小林は、昭和天皇には基本的に戦争責任はないと主張する。何故なら昭和天皇は、実質的に政治的な発言が制約されていた。その証拠に彼は美濃部達吉の天皇機関説に同意していたが、それを表明することをしなかった。自分の政治的な発言によって、天皇が過度に政治化するのを避けたかったからだ。同じことは軍部に対してもあてはまる。天皇は内心では軍部の暴走に危惧を抱いていたが、それを表向きに発言するのを控えた。それが立憲主義だと昭和天皇が思っていたからで、それ故、昭和天皇に戦争責任を負わすのは酷だと小林は言うのである。

では、昭和天皇に戦争責任がないとして、一体誰に責任があるのか、とう井上の問いに対して小林は、立憲民主主義なんだから国民が責任を負うべきだと答える。「すべての責任は国民が引き受けないと民主主義は成立しませんよ」と言うわけである。

小林がそう言うわけは、彼が「国民よりも天皇を信じている」ということに理由があるらしい。昭和天皇は聡明だったが国民がバカだったので、あのような戦争を起してしまった、と言いたいかのようだ。それは不可抗力のようなもので、民主主義の勢いの行き着くところだったのではないか。あの戦争は天皇の過ちから起こったことではなく、バカな国民が民主主義の名のもとで起こしたものなのだ。つまり民主主義こそ戦争に最も大きな責任を負うべきなのだ、と言うことになる。

戦争と愛国心は表裏一体の関係にあるが、その愛国心については、二人の考えは基本的に一致する。愛国心は尊いもので大事にしなければならないが、しかし強制すべきものではない、というのが二人に共通した考えだ。この考えに基づいて、石原都政時代における国旗・国歌の強制を二人は口を揃えて批判している。石原と言えば、日頃から愛国心を振り回しているが、彼のやっていることは真の愛国心に出たことではない。たとえば尖閣諸島の東京都による買収騒ぎなども、愛国心を借りて、自分の野心を満足させるための便法に使っただけで、本物の愛国心とは何の関係もない。そんな厳しい見方を二人は共有していることが伝わってくる。そういう似非愛国心には小林も、「バカ保守」に対してと同様厳しい批判を浴びせている。その辺に小生などは、小林の義侠心を感じてしまう。




  
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