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小人たちの背比べ:民主党の総裁選び


菅総理大臣が退場を呑んだことで、民主党の後継総裁選びが一気に本格化した。早ければ8月中にも選出手続きが行われそうで、野田財務大臣、鹿野農水大臣、馬渕元国交大臣、小沢元環境大臣などが出馬に意欲を見せているが、いまのところ野田財務大臣が一歩リードしているようだ。だがその野田氏を含めて、どの候補者も政治家としての手腕が不足しているのは否みがたく、これで果たして日本国総理大臣が立派に勤まるのか。誰もが不安に思うところだろう。

野田氏がリードしているのは、民主党内の政治力学を反映した結果であって、国民の人気が高いとか政治家としての力量が優れているとか、そうしたこととはほとんど関係がないようだ。

野田氏の政治家としての力量については、国民はほとんど知るところがない。むしろ、今日(8月18日)の朝日の社説が厳しく批判しているように、日本の総理大臣としては首をひねらざるをえないところがある。朝日は、野田氏が靖国神社に合祀されているいわゆるA級戦犯について、彼らは戦犯ではないと改めて表明したことを批判しているのだが、たしかにそんなことは、これから日本の総理大臣を目指そうという人物がいうべきことではない。

その野田氏から聞こえてくる唯一政見らしい発言といえば、自民、公明との大連立構想だ。ねじれ国会のなかで、法案の審議がなかなか進まなかった事情を踏まえての意見だとは思うが、呼びかけられた相手の自民、公明両党があざ笑うほどだから、実現の可能性は期待できそうもない。

他の候補たちも、政見表明という点では、似たようなものだ。みなさん政治的なマヌーバーは語るが、肝心の政治哲学なり具体的な政策を語ることはない。彼らの目は党内や永田町の狭い範囲しか見ておらず、国民に顔を向け、正々堂々と自分の政策を語ることがない。日本の政治にとって実に肌寒い眺めだ。

一体彼らは、2年前に民主党が勝利した要因をどう考えているのだろうか。国民が民主党に託したのは、自民党に代る新しい政党と新しい政治のあり方だったはずだ。そのときに民主党が国民に対して約束したマニフェストを国民が信頼したから、民主党は勝利できたはずなのだ。

ところが今、民主党の総裁をめざしている人々には、このことに関する反省が微塵もない。そんなマニフェストなどは、とっくにどぶの中に投げ捨てたかのような言動がまかり通っている。別にマニフェストを最後まで誠実に実行しろなどとは誰も言わないだろうが、ろくに検証もしないで忘れ去っても良いとは、誰もいってはいないはずだ。

なぜこんなことになるのかは、心ある国民なら誰もが知っている。日本の政治家たちが政治家としての原点を忘れ、国民の幸福よりも自分たちの権力欲を重くみるようになってきたからだ。

与野党を通じて、いまの政治家には、国民と正面から向き合い、あるいは国民に寄り添い、国民にとって真に必要なことは何かについて、国民と共に考えるような、そうした誠実な人物がいない、こういわざるを得ないのは筆者だけではあるまい。彼らが不真面目だとはいわないまでも、人間の大きさは感じられない。彼らの権力闘争を見ていると、小人同士の背比べのようにしか見えない。




  
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