日本語と日本文化


2007参院選:自民党大敗の意味


2007年の参院選は自民党大敗の結果をもたらした。マスメディアの中にはこれを歴史的大敗などと大げさに表現するものもある。

民主党あるいは野党の勝利といわず、自民党の大敗と表現されるのにはそれなりの意味がある。これは野党側の攻勢による勢力逆転というより、自民党の自壊作用がもたらした必然的な結果だったのだ。

自壊作用というが、それをもたらした要因は何重にも絡み合っていて、きわめて複雑かつ深刻な様相を呈している。長い間自民党を支持してきた人々も、自民党を蝕んでいる病理現象に愛想を尽かし、去っていったと思われるのである。

表面的にみれば、今回の選挙の争点となったのは、年金問題と閣僚の相次ぐ不始末、それらに対して適切に対処できない阿部首相のガバナビリティであったろう。

朝日新聞による投票者の出口調査によれば、年金問題が投票に「影響を与えた」と答えた人は51パーセントで、「影響を与えなかった」の18パーセントを大きく上回った。「影響を与えた」と答えた人の55パーセントは民主党に投票し、自民党に投票したのは17パーセントにすぎなかった。自民支持層でさえ、年金問題を重視する人は38パーセントもが民主党に投票し、自民党に投票したものは半数に満たなかった。この問題がいかに国民を怒らしたか、よく物語っている数字である。

閣僚の不始末も響いた。金を巡るスキャンダルや国民を愚弄するかのような失言が相次いで、自民党の中からさえ、「お友達内閣」の節度のなさが指摘されたほどだ。これに対して阿部首相は、かばうような印象ばかりが目に付き、毅然とした態度をとろうとしなかった。そのことが、阿部首相の政治家としての資質に疑問を抱かせたのではないか。

先の出口調査によれば、阿部首相の続投を容認するものは32パーセントなのに対して、退陣を求めるものは56パーセントにのぼり、自民支持層でさえ32パーセントが退陣を求めている。これは馬鹿に出来ない数字だ。

以上の数字だけからでも、自民党の陥っている深刻な状態がよくわかろうというものだが、自民党の危機的状態はそのことのみにとどまってはいない。

それは国民の中に広がっている将来への不安に対して、自民党がまともに答えられていないということだ。

つまり広がる格差社会の中で、落ちこぼれて貧困化していく人々の不安に、自民党が殆ど無関心だったということである。その無関心な表情を、国民の多くは阿部首相の顔に感じたのではないか。

今日格差社会の敗者とされる人々にはいくつかのグループがある。

最も大きなグループは、非正社員と呼ばれる人々を中心にした労働弱者である。自民党政権が進めてきた雇用の規制緩和なるものによって、今や日本の勤労者のうち、非正規雇用の割合は3分の1に達する。非正規雇用そのものは、脱価値的なイメージのものかもしれないが、それが当事者たちに耐え難いのは、正規雇用に比較した賃金の低さ、処遇の劣悪さにある。試算によれば生涯賃金で1億円以上の開きがあるといわれているが、そんな数字は別にして、日々の暮らしに事欠き、未来への希望を持てない人々が大量に出現しているのだ。

第二のグループは、地方の人々とりわけ農村部の人々だ。地方が疲弊し、そこに住む人々の生活が成り行きがたくなったことについては、都市におけるワーキングプアの現象とパラレルなものとして注目されるに至っている。これに中小零細企業の疲弊を加えれば、今の日本が直面している、格差社会の闇の部分が浮かび上がってくるだろう。

いわゆる失われた10年を経て、日本経済は緩やかに回復し、近年では数字の上からは好況を続けているともいわれているが、それが国民の間に実感として伝わらない。むしろ生活がますます苦しくなると感じる人が増えるばかりというのはどうしたことか。

かつて小泉首相は、「改革なくして成長なし」といい、将来の豊かさのために現在の不満をしのぼうと呼びかけたが、経済が好況となってもなかなかその恩恵にあずかれない。もう我慢するのも限界だ。多くの国民はそう感じているのだと思う。

自民党は橋本政権以来、小さな政府と民間活力を合言葉に政権運営をしてきた。小泉政権が標榜した構造改革と規制緩和はそれを大規模に実施したものだ。その結果何が起こったか。たしかに政府の財政支出は縮小され、従来の規制の多くが緩和されたり撤廃された。アメリカ流のサプライサイドの経済理論によれば、こうした効果は経済を活性化させ、成長を誘引し、国民のふところぐあいを豊かにするはずであったろう。

だが日本ではそうはならなかった。規制緩和が作用した一例としてタクシー業界をあげれば、結果として現れた現象は、タクシー運転手たちの生活地獄とでもいうべき事態だった。彼らは規制緩和の結果過当な競争にさらされ、その結果年収200万といったひどい収入しか得られない状態においつめられたのである。

アメリカと同じような政策を採っただけなのに、日本では何故こんなひどいことが起こらなければならないのか。それは運輸業界をとりまく事情が、アメリカと日本では異なるからだ。アメリカでは、タクシー業界といえども、労働市場は発達していて、労働者の低賃金化に一定の歯止めがかかる仕組みがある。日本にはそういったものは存在せず、規制緩和による過当競争のしわ寄せが、労働者に集中するのである。

雇用の非正規化の拡大も同じようなメカニズムで、労働者の生活条件を低下させる。だいたいアメリカのような社会では、労働者の生涯雇用などというものはないかわりに、成熟した労働市場が労働者一人ひとりの生活を守っている。労働者は生涯を通じてどんな企業に働こうと、同一賃金の原理によって不当な差別待遇を受けず、また最低賃金の原理によって一定の生活水準を補償される。これが社会の安定化にとって欠かせない仕組みなのである。

ところが日本はどうなっているのか。健全な労働市場がるとはとてもいえない。市場の一方の当事者というべき労働組合は企業内組合であって、ある一定の産業部門に働く労働者の権利を、総体として代表するような組織は存在しない。だから、労働者は裸同然の状態で労働市場に赴き、求職活動をしなければならない。その結果就職できたとしても非正規雇用の待遇を受け、同じ労働に従事しながら、不当に安い賃金に甘んじなければならない。

自民党が今までやってきたことは、ミスマッチの政策だったとしかいいようがない。つまり、成熟した市場が存在しないところへ、本来それを前提として成り立つ政策を持ち込んだわけだ。その結果弱い労働者にしわ寄せが集まり、ワーキングプアなどという人々が大量に発生することともなったのである。

地方や中小零細企業については、また別の難しい問題がある。だが、中小企業の疲弊にはワーキングプアと同じようなメカニズムが働いていると思われる。

日本の景気は、底堅い内需に支えられて堅実に回復してきたというよりは、相変わらず輸出に頼る構造が続いている。勤労世帯の所得が増えないのであるから当然のことだが、それはともかく自民党はこうした景気回復を、構造改革の成果だなどと主張している。だが本当にそうだろうか。

経済のグローバリゼーションの中で、中国経済の発展が最近のめざましい出来事であるが、日本もその中国経済の発展に大きく助けられた側面がある。むしろ、構造改革などより、グローバリゼーションの波にうまく乗れたことが日本の景気回復にプラスに働いたといったほうがよい。

このグローバリゼーションは、国内の産業構造にも大きな影響を与えた。アジア諸国との競争の中で生き延びるため、すさまじいまでの競争が行われ、そのしわ寄せが中小零細企業に集中した結果である。いまや、中小零細企業は青息吐息の状態となって、かつて日本のものづくりを支えてきた活力を失いつつある。

ワーキングプアといい、疲弊する中小零細企業といい、弱いものにしわ寄せが集中している事態が、今日の日本の実態である。日本は弱いものにとって住みづらい社会になっている。筆者はそれを「付回し社会」と呼びたい。企業は労働者に、大企業は中小零細企業に、付けを回すことで太っている。何しろ大銀行までが、サラ金を子会社並みに扱い、金のない人間相手に高利貸し稼業を営むような時代だ。

自民党がいう改革がもたらしたものとは、弱いものの生活破壊だったのではないか、多くの国民はそう考えているのではないか。その怒りが今回の2007年参院選の結果となって現れたのではないか。

阿部首相は遊説先でことあるごとに「改革、改革」と叫んでいたが、多くの国民の耳には、「改革」という言葉の中身は、自分たちの「生活破壊」という風に聞こえたのではないか。

以上が、2007年参院選に筆者が感じ取った民意の意味である。自民党に取って代わろうとするものも、自民党を再生させようとするものも、この民意の重さを真剣に受け止めなければならないだろう。




  
.


検     索
コ ン テ ン ツ
日本神話
日本の昔話
説話・語り物の世界
民衆芸能
浄瑠璃の世界
能楽の世界
古典を読む
日本民俗史
日本語を語る1
日本語を語る2
日本文学覚書
HOME

リ  ン  ク
ブログ本館
万葉集を読む
漢詩と中国文化
陶淵明の世界
英詩と英文学
ブレイク詩集
マザーグースの歌
フランス文学と詩
知の快楽
東京を描く
水彩画
あひるの絵本




HOME日本の政治




作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2008-2012
このサイトは作者のブログ「壺齋閑話」の一部をホームページ向けに編集したものである