日本語と日本文化


楠正成とは何者か(太平記の世界)


楠正成は、太平記の群像の中でもとりわけ異彩を放ち、時代のヒーローとして描かれている。南朝方の武将の中で、正成ほど敵を震え上がらせたものはない。戦いぶりといい節度といい、その生き様は、足利方の視点から書かれた「梅松論」においてさえ、あっぱれと賞賛されている。また、戦前の権威主義的な教育にあっては、忠君愛国の士と称揚され、皇居前広場に銅像が立てられたほどであった。

近年になって、実証的な研究が進むにつれ、イデオロギー的な見方はさすがに排され、より客観的な見地から楠正成の実像に迫ろうという動きが強まってきた。その最たるものは、日本の中世社会を彩った悪党の動きの中に正成を捉え直そうとする見方である。

とはいえ、楠正成の実像については不明の点が多く、とくに前半生についてはほとんどわかっていない。わかっているのは、後醍醐天皇の倒幕の呼びかけに応えて、河内に挙兵してから以降のことである。これはそのまま太平記の記述に重なるのであるから、我々はいまだに太平記を頼りにしながら、楠正成という人物を読み解くほかないのである。

だが、太平記に描かれた楠正成の戦いぶりを、仔細に見てみると、それはどうも、中世末期に畿内各地に出現した、悪党と呼ばれる連中と似通っているのである。悪党とは、文字通り悪人という意味ではなく、公儀の秩序からはみ出た者どもをさしていったらしい。古代的な荘園制度がゆるむ過程で、荘園の権力に対抗して自立を主張するものがあちこちに現れた。それらが既成の権力からみて、秩序を脅かす限りにおいて、悪党と呼ばれたらしいのである。

悪党たちは、個人個人が武装するのみならず、集団としても武装するに至り、集落の周りを砦のように固めて敵に対抗した。「楯を突く」という言葉があるが、これは、悪党たちが自分らの集落の周りに、天を突くように楯を立ち並べて、敵を防御したことに由来した言葉なのである。

これらの悪党を髣髴させるような楠正成の戦いぶりを、太平記は生き生きと描いている。まず、赤坂城合戦の場面を見てみよう。正成は、後醍醐天皇御謀反を知ると、かねての盟約どおり、手持ちの軍勢を動員して、「己が館の上なる赤坂山」に城郭を構えて立てこもった。これに対し、天皇の拠点笠置城を落とした幕府軍は、三十万騎という大軍で赤坂城に押し寄せる。

―遥々と東国より上りたる大勢共、・・・楠兵衛正成が楯篭たる赤坂の城へぞ向ひける。石河々原を打過、城の有様を見遣れば、俄に誘へたりと覚てはかばかしく堀をもほらず、僅に屏一重塗て、方一二町には過じと覚たる其内に、櫓二三十が程掻双べたり。是を見る人毎に、あな哀の敵の有様や、此城我等が片手に載て、投るとも投つべし。あはれせめて如何なる不思議にも、楠が一日こらへよかし、分捕高名して恩賞に預らんと、思はぬ者こそ無りけれ。

この文から読み取る限り、正成の作った城は堅牢とは程遠く、手勢も数百名、まともに戦ったのではひとたまりもなかったであろう。武力の劣勢は知力で補わなければならない。正成は、手勢のうち三百人をさいて、後方の山にかくし、自らは城に様々な仕掛けをすることによって、敵を撹乱する。まさしく、ゲリラ的な戦法である。

序盤戦では、敵が「心を一片に取て、只一揉に揉落さんと、同時に皆四方の切岸の下に着たりける処を、櫓の上、さまの陰より、指つめ引つめ、鏃を支て射ける間、時の程に死人手負千余人に及べり」といった具合である。敵が混乱したすきに、隠れていた部隊が躍り出てくる。

「三百余騎を二手に分け、東西の山の木陰より、菊水の旗二流松の嵐に吹靡かせ、閑に馬を歩ませ、煙嵐を捲て押寄たり。東国の勢是を見て、敵か御方かとためらひ怪む処に、三百余騎の勢共、両方より時を咄と作て、雲霞の如くに靉ひたる三十万騎が中へ、魚鱗懸に懸入、東西南北へ破て通り、四方八面を切て廻るに、寄手の大勢あきれて陣を成かねたり。城中より三の木戸を同時に颯と排て、二百余騎鋒を双て打て出、手崎をまわして散々に射る。寄手さしもの大勢なれども僅の敵に驚騒で、或は維げる馬に乗てあをれども進まず。或は弛せる弓に矢をはげて射んとすれども不被射。物具一領に二三人取付、「我がよ人のよ。」と引遇ける其間に、主被打ども従者は不知、親被打共子も不助、蜘の子を散すが如く、石川々原へ引退く。」

少数の兵が、何万という大軍のなかに乱入して、これを蹴散らかす有様は、胸をすくようである。

体勢を立て直した大軍は、城を落とそうと波状的に襲い掛かるが、そのたびに正成の小細工に翻弄される。城を囲む塀に、兵どもがとびかかると、塀は二重になっていて、兵どもの張り付いていた塀は切り落とされる。かくて、混乱した兵どもの頭上に大木、大石が雨の如く降りかかり、大勢のものが死ぬ。かと思えば、押し寄せる大軍の頭上に熱湯を浴びせたりして、寄せ手の志気をそぐ。尋常の戦い方ではなく、知略を以て敵を制するやり方である。

戦いが持久戦の様相を呈すると、楠正成は城を捨てて脱出する。その脱出も、敵陣のなかを大胆に突破するというもので、実に痛快である。

金剛山の戦いは、太平記前半の最大の山場である。後醍醐天皇が配流先の隠岐を脱出すると、反幕府勢力は再び結集して戦いを挑む。楠正成は、幕府の強大な軍と戦うために、平場での合戦を避け、山岳地帯に城を構えて、赤坂城での戦いと同じような戦法を取った。赤坂城に比較して、金剛山は一層険しい地形であり、ゲリラ戦にはもってこいだったのである。

それでも、幕府軍は外郭の上赤坂城を攻め落とし、正成の立てこもる千早城へと攻め上ってくる。

―千剣破城の寄手は、前の勢八十万騎に、又赤坂の勢吉野の勢馳加て、百万騎に余りければ、城の四方二三里が間は、見物相撲の場の如く打囲で、尺寸の地をも余さず充満たり。旌旗の風に翻て靡く気色は、秋の野の尾花が末よりも繁く、剣戟の日に映じて耀ける有様は、暁の霜の枯草に布るが如く也。大軍の近づく処には、山勢是が為に動き、時の声の震ふ中には、坤軸須臾に摧けたり。此勢にも恐ずして、纔に千人に足ぬ小勢にて、誰を憑み何を待共なきに、城中にこらへて防ぎ戦ける楠が心の程こそ不敵なれ。

―此城東西は谷深く切て人の上るべき様もなし。南北は金剛山につゞきて而も峯絶たり。されども高さ二町許にて、廻り一里に足ぬ小城なれば、何程の事か有べき〔と〕、寄手是を見侮て、初一両日の程は向ひ陣をも取ず、責支度をも用意せず、我先にと城の木戸口の辺までかづきつれてぞ上たりける。城中の者共少しもさはがず、静まり帰て、高櫓の上より大石を投かけ投かけ、楯の板を微塵に打砕て、漂ふ処を差つめ差つめ射ける間、四方の坂よりころび落、落重て手を負、死をいたす者、一日が中に五六千人に及べり。

こうして、数ヶ月に及ぶ戦いの火蓋が切って落とされる。正成は、敵の目を欺く様々な企みを以て、寄せ手を翻弄する。時には、藁人形を囮に使って敵をおびき寄せ、頭上に大石を浴びせかけるようなこともする。また、敵が堀の上にかけた梯を火でくるみ、敵兵をことごとく谷底へ突き落としたりする。地形の険しさを逆手にとった戦法である。

戦いの最後の局面では、畿内あちこちから集まった野武士どもが、正成の加勢に押し寄せ、山岳を舞台にして、幕府の軍勢を攻撃する。

―去程に吉野・戸津河・宇多・内郡の野伏共、大塔宮の命を含で、相集る事七千余人、此の峯彼〔の〕谷に立隠て、千剣破寄手共の往来の路を差塞ぐ。依之諸国の兵の兵粮忽に尽て、人馬共に疲れければ、転漕に怺兼て百騎・二百騎引て帰る処を、案内者の野伏共、所々のつまりづまりに待受て、討留ける間、日々夜々に討るゝ者数を知ず。希有にして命計を助かる者は、馬・物具を捨、衣裳を剥取れて裸なれば、或は破たる蓑を身に纏て、膚計を隠し、或は草の葉を腰に巻て、恥をあらはせる落人共、毎日に引も切らず十方へ逃散る。前代未聞の恥辱也。

ここに描かれたゲリラ戦は、まさに悪党たちが得意とした戦法である。楠正成は、自らこうしたゲリラ戦が得意であったばかりか、各地の悪党とも太いつながりがあったと思われる。

こんなところから、最近の研究においては、楠正成悪党説が有力となっているのである。


    


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