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太平記の世界


太平記は、平家物語とならんで、軍記物の代表とされている。後醍醐天皇の即位と北条氏の滅亡、南北朝の動乱から足利氏による天下平定までに至る、戦乱の世を描いた作品である。客観的な歴史認識というよりは、怒涛のように激しく移り変わる世の有様を、まさに同時代を生きた当事者の目を通じて描いている。この臨場感が、作品に生命を吹き込み、聞く者読む者をして、感動せしむるのである。

太平記の成立については、確かなことはわかっていない。応永9年(1402)に成立した今川了俊の著「難太平記」には、宮方深重のものが書いたものだから、あて推量が多くて信用できないというような記述がある。ここで宮方深重のものとは、南朝方の公家をさしていっているのであるが、太平記は読んでわかるとおり、社会の下層にあった人々の視点を通してでなければ書けないようなところが多く含まれており、到底貴族が書いたものとは割り切れない。

一方、「洞院公定日次記」(応安7年=1374)などにもとづいて、太平記の作者を小島法師とする説もあった。記事によれば、小島法師は卑賤のものであるが、名匠としての聞こえがあったとある。小島法師がどのような人物であったのか、歴史的な確証はないが、おそらく遁世した下層の僧のようなものであったと思われる。

太平記は、大きくわけて、3つの部分からなっている。北条氏の滅亡で終る第一期、後醍醐天皇の死で終る第二期、そして足利氏の天下平定で終る第三期である。この三つの部分は、それぞれ歴史認識の態度に微妙な差があり、全体が統一した構想のもとで書かれたとは思えないようなところがある。

第一期は、後醍醐天皇による武家政権の打倒と公家による政権の復活が歴史上のテーマであったにもかかわらず、その叙述は、北条と足利らの戦いを中心にし、武家内部の勢力争いに重点を置いている。いわば源平の戦いの再現である。滅びる北条は平家になぞらえられ、足利方は源氏になぞらえられている。この部分には、平家物語が影響していると思わせるのである。

第二期は、一転して、後醍醐天皇に代表される公家勢力と、足利ら武家勢力の正面対決が描かれる。叙述はどちらかといえば南朝寄りであり、楠正成ら南朝方の武将の活躍が生き生きと描かれている。あわせて、当時の社会を構成していた様々な階層の人々が登場する。その中には、聖や遁世者、遊君や野伏、山伏といったものも含まれている。また、楠正成に代表されるような、土着の武士勢力は、旧来の秩序を超えて新たな階層としてのし上がりつつあったのだが、これら悪党ともよばれた勢力に関する叙述が、この部分の大きな特徴である。

第三期は、足利政権内部の権力争いがテーマである。

こられの構成部分に対応して、書かれた時期もずれているのではないか。第一期は、尊氏が覇権を確立した頃にかかれ、第二期は後醍醐天皇の死後に書かれ、第三期は足利義詮の死の数年後(1370年頃)に書かれたのではないかと思われる。

先述の小島法師が、作者の一人としてかかわっていたことは十分ありうることである。しかし、彼一人で書いたというよりは、長い時間をかけて、多くの人びとがかかわったと見るほうが自然であるかもしれない。それらの人々は、社会の上層にある人というより、むしろ下層に近い人たちであったろう。物語のあちこちに見られる民衆のエネルギーや、当時悪党とよばれた土着の新興勢力についてのたしかな叙述が、そう思わせるのである。

太平記は、物語僧と呼ばれる人々によって民衆の間に広められた。平家物語が琵琶法師たちによって語られたのに対し、太平記はもっぱら読み上げられた。そこから、太平記読みという言葉が生まれた。徳川時代に入ると、太平記は講釈というかたちで伝えられ、民衆の熱い支持を得た。しかして講釈は、今に伝わる講談の源流となった。

昔の日本人は、太平記読みといわれる特殊な人々の語りを通して、日本の歴史を学習したのである。ここでは、太平記が語る世界について、その一端を紹介したい。



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