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朝敵揃:平家物語巻五


相模の大庭影親が、頼朝が謀反の挙兵をしたこと、舅の北条時宗とともに平家の代官を討ったこと、その後大庭の反撃によって石橋山で敗北、安房へ逃れたことなどを、早馬で知らせてきた。これを聞いた平家の人々の反応は様々だったが、清盛は、池の禅尼の懇願をいれて頼朝の命を救ってやったので、忘恩に憤った。

平家方にとって頼朝は朝敵である。これまで朝敵が志を達した例はない。みな最後には成敗され、屍を山野にさらしてきた。頼朝もその例外ではない、として、平家物語は過去の朝敵を羅列して、それらを頼朝と対比させる。


~夫我朝に朝敵のはじめを尋れば、やまといはれのみことの御宇四年、紀州名草の郡高雄村に一の蜘蛛あり。身みじかく、足手ながくて、力人にすぐれたり。人民をおほく損害せしかば、官軍発向して、宣旨をよみかけ、葛の網を結んで、遂にこれを覆ひころす。それよりこのかた、野心をさしはさんで朝威を滅ぼさんとする輩、大石山丸、大山王子、守屋の大臣、山田石河、曾我入鹿、大友真鳥、文屋宮田、橘逸成、氷上の河次、伊与の親王、太宰少弐、藤原広嗣、恵美の押勝、早良の太子、井上の広公、藤原仲成、平将門、藤原純友、安陪貞任・宗任、対馬守源義親、悪左府・悪衛門督にいたるまで、すべて廿余人、されども一人として素懐をとぐる物なし。かばねを山野にさらし、かうべを獄門にかけられる。


こう語った後で、朝敵が輩出したのは嘆かわしいことだ、昔は禽獣でさえも朝威を重んじたといって、五位鷺の例をあげる。宣旨に従った鷺に五位の位がさずけられたという話である。


~此世にこそ王位も無下に軽けれ、昔は宣旨を向つてよみければ、枯たる草木も花さき実なり、とぶ鳥も従ひけり。中比の事ぞかし。延喜御門神泉苑に行幸あッて、池のみぎはに鷺のゐたりけるを、六位をめして、「あの鷺とッて参らせよ」と仰せければ、争か取らんと思ひけれども、綸言なればあゆみむかふ。鷺はねづくろひして立たんとす。「宣旨ぞ」と仰すれば、ひらんで飛びさらず。これをと取つて参りたり。「なんぢが宣旨にしたがッて参りたるこそ神妙なれ。やがて五位になせ」とて、鷺を五位にぞなされける。「今日より後は鷺のなかの王たるべし」といふ札遊ばいて、頸にかけてはなたせ給ふ。まッたく鷺の御料にはあらず、只王威の程を知ろし召さんがためなり。



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