日本語と日本文化


競:平家物語巻第四



(平家物語絵巻から 競)

嫡男重盛の死後諌めるもののいなくなった清盛はますます横暴になり、ついには後白河法皇を幽閉するという暴挙に出た。そんな清盛に対して、公家をはじめさまざまな方面から反発の動きが出てくる。後白河法皇の第二皇子高倉の宮が平家打倒に立ち上がったのは、そうした動きを代表するものだ。

宮にその決意を促したのは、源三位頼政だった。頼政は保元・平治の両乱でいづれも勝者側についた武士として、平家も一目置く存在だった。その頼政が平家への謀反を考えるようになったのは、平家による侮辱に怒ったからだった。清盛の三男である宗盛が、頼政の子仲綱の愛馬木の下を取り上げた上に、その馬に仲綱の名を示した焼き鏝をいれ、何かと仲綱を馬鹿にしたことで、子をこけにされた頼政は大いに怒ったのである。

だが、高倉の宮の謀反は順調には運ばなかった。謀反が発覚して平家の追及が迫ってきたので、宮は三井寺に身を寄せた。頼政もそれに従った。

頼政の郎党に競というものがあった。競は当代随一の武士との評判が高く、戦にめっぽう強い上に、ハンサムでもあった。頼政への忠誠心は郎党中の誰よりも強い。そんな競が、宮や頼政に同行する機会を逸し、一人取り残されてしまった。競の能力を高く評価している宗盛は、競を自分の配下に引き入れようとする。その話を逆手にとって、競は宗盛に一泡吹かせてやろうとする。巻第四「競」の章は、そんな競の痛快な知略ぶりを語った部分だ。

~三位入道の侍に、源三滝口競といふ物あり。馳せおくれてとどまッたりけるを、前右大将、競をめして、「いかになんぢは三位入道のともをばせでとどまッたるぞ」との給ひければ、競畏りて申しける、「自然の事候はば、まッさきかけて命をたてまつらんとこそ、日来は存じて、候つれども、何と思はれ候ひけるやらん、かうとも仰せられ候はず」。「抑朝敵頼政法師に同心せむとや思ふ。又これにも兼参の物ぞかし。先途後栄を存じて、当家に奉公いたさんとや思ふ。ありのままに申せ」とこその給ひければ、競涙をはらはらとながいて、「相伝のよしみはさる事にて候へども、いかが朝敵となれる人に同心をばし候べき。殿中に奉公仕うずる候」と申しければ、「さらば奉公せよ。頼政法師がしけん恩には、ちッともおとるまじきぞ」とて、入り給ひぬ。さぶらひには、「競はあるか」。「候」。「競はあるか」。「候」とて、あしたより夕に及ぶまで祗候す。


宗盛の配下になりすました競は、三井寺に討ち入って敵を退治したいから、馬を一頭貸して欲しいと言う。宗盛はすっかり競を信用して、自分の愛馬煖廷を、美々しく飾り立てて貸し与えた。競はその馬に乗って味方に合流すべく、妻子を安全な場所に避難させたうえで、自分の屋敷に火をかけて出奔するのである。

~やうやう日もくれければ、大将出でられたり。競かしこまッて申しけるは、「三位入道殿三井寺にときこえ候。さだめて打手向けられ候はんずらん。心にくうも候はず。三井寺法師、さては渡辺の親しいやつ原こそ候らめ。ゑりうちなンどもし候べきに、乗つて事にあふべき馬の候ひつるを、親しいやつめに盜まれて候。御馬一疋くだしあづかるべうや候らん」と申しければ、大将「もッともさるべし」とて、白葦毛なる馬の煖廷とて秘蔵せられたりけるに、よい鞍おいてぞ賜うだりける。競やかたに帰つて、「はや日のくれよかし。此馬に打乗りて三井寺へはせ参り、三位入道殿の真先かけて打死せん」とぞ申しける。

~日もやうやうくれければ、妻子共かしこここへたちしのばせて、三井寺へ出立ちける心のうちこそ無慚なれ。ひやうもんの狩衣の菊綴大きらかにしたるに、重代のきせなが、緋縅のよろひに星白の甲の緒をしめ、いか物づくりの大太刀はき、廿四差いたる大中黒の矢おひ、滝口の骨法忘れじとや、鷹の羽にてはいだりける的矢一手ぞさしそへたる。滋籐の弓持つて、煖廷にうちのり、のりかへ一騎うち具し、とねり男にも楯脇ばさませ、屋形に火かけ焼きあげて、三井寺へこそ馳たりけれ。


競の出奔を知った宗盛は追っ手をかけようとするが、競の剛勇振りを知っている平家の武士たちは誰も命令を聞こうとしない。

三井寺で主人たちと合流した競は、宗盛の馬に、宗盛が仲綱の馬にしたと同じことをする。つまり、宗盛の名を焼印したのである。その焼印をした馬を宗盛のところへ返してやると、宗盛は烈火のごとく怒った。こんなところに、兄重盛と比較して、弟宗盛の思慮のなさが強調されているわけであろう。

~六波羅には、競が宿所より火出できたりとて、ひしめきけり。大将いそぎ出でて、「競はあるか」とたづね給ふに、「候はず」と申す。「すわ、きやつを手延べにして、たばかられぬるは。追掛けてうて」との給へども、競はもとよりすぐれたるつよ弓精兵、矢つぎばやの手きき、大力の甲の物、「廿四さいたる矢でまづ廿四人は射ころされなんず。音なせそ」とて、むかふ物こそなかりけれ。

~三井寺には折節競が沙汰ありけり。渡辺党「競をば召具すべう候ひつる物を。六波羅残りとどまッて、いかなるうき目にかあひ候らん」と申しければ、三位入道心をしッて、「よもその物、無台にとらへ搦められはせじ。入道に心ざしふかい物也。いま見よ、只今参らンずるぞ」との給ひもはてねば、競つッといできたり。「さればこそ」とぞの給ひける。競かしこまッて申しけるは、「伊豆守殿の木の下がかはりに、六波羅の煖廷こそとッて参つて候へ。参らせ候はん」とて、伊豆守にたてまつる。伊豆守なのめならず悦びて、やがて尾髪をきり、かなやきして、次の夜六波羅へつかはし、夜半ばかり門のうちへぞ追入れたる。馬やに入つて馬どもにく食ひあひければ、舎人おどろきあひ、「煖廷が参つて候」と申す。大将いそぎ出でて見給へば、「昔は煖廷、今は平の宗盛入道」といふ鉄焼をぞしたりける。大将「やすからぬ競めを、手延びにしてたばかられぬる事こそ遺恨なれ。今度三井寺へ寄せたらんには、いかにもしてまづ競めをいけどりにせよ。鋸で頸きらん」とて、躍りあがり躍りあがり怒られけれども、南丁が尾髪も生ひず、鉄焼も又うせざりけり。


この章は、主人の恨みを晴らした武士のあっぱれな振舞いが語られている。だが高倉の宮や頼政には運がなく、宇治平等院での平家との戦いに敗れ、頼政は自害、宮は敗走の途中敵の矢に射られて戦死した。

(絵は、競が名馬煖廷の下賜を乞う場面を描く)




  
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