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六代:平家物語巻第十二


平家物語の本文は、平家の嫡流六代の死を以て終わる。六代の死は平家の完全な滅亡を意味し、それを語ることは、平家物語を締めくくるに相応しいと言えよう。その象徴的な場面に登場するのが文覚上人である。文覚は、巻第六で登場し、頼朝の命を救う為に大活躍した後、高雄の神護寺に引きこもって、当面は舞台から消え去っていたのであるが、平家の嫡男六代が、頼朝の命によって殺されそうだと聞き、その命乞いのために一肌脱ぐのである。平家を滅亡させた頼朝の命を救ったその文覚が、今度は平家の嫡男の命を救う為に尽力するという構図は、平家物語に奥行きをもたらしているといえる。

六代は、母、乳母および少数の家臣と共に大覚寺に隠れ暮らしていたが、ある女房の密告によって代官北条時政に所在を知られ、六波羅に連行されてしまう。母親たちは嘆き悲しんだが、高雄の文覚上人が頼朝とことのほか縁が深いと言う話を聞きつけた乳母が、六代の命を救って欲しいと文覚に直談判する。その話を聞いた文覚は、さっそく六波羅に赴いて、時政に事情を聞いたところ、これこれこういうわけで、気の毒ながら命を奪わねばならぬと聞かされる。そこで文覚は、自分が直接頼朝と会って命乞いをするから、二十日間の猶予をくれといい置いて、急ぎ鎌倉に向かう。


~聖六波羅にゆき向つて、事の子細をとひ給ふ。北条申しけるは、「鎌倉殿のおほせに、「平家の子孫京中に多く忍んでありときく。中にも小松三位中将の子息中御門の新大納言のむすめの腹にありときく。平家の嫡々なるうへ、年もおとなしかんなり。いかにも尋ね出して失ふべし」と仰せを蒙りて候ひしが、此程すゑずゑの幼き人々をば少々取り奉りて候ひつれ共、此若君は在所をしり奉らで、尋ねかねて既に空しう罷下らむとし候ひつるが、思はざる外、一昨日聞出して、昨日向へ奉りて候へども、なのめならずうつくしうおはする間、あまりにいとほしくて、いまだともかうもし奉らでおき参らせて候」と申せば、聖、「いでさらば見奉らむ」とて、若君のおはしける所へ参つて見参らせ給へば、二重織物の直垂に、黒木の数珠手に貫き入れておはします。髪のかかり、すがた、事がら、誠にあてにうつくしく、此世の人とも見え給はず。こよひうちとけてね給はぬとおぼしくて、少しおもやせ給へるにつけて、いとど心ぐるしうらうたくぞおぼえける。聖を御らんじて何とかおぼしけん、涙ぐみ給へば、聖も是を見奉つてすぞろに墨染の袖(そで)をぞしぼりける。

~たとひ末の世に、いかなるあた敵になるともいかが是を失ひ奉るべきと悲しうおぼえければ、北条にの給ひけるは、「此若君を見奉るに、先世の事にや候らん、あまりにいとほしう思ひ奉り候。廿日が命をのべてたべ。鎌倉殿へ参つて申しあづかり候はん。聖鎌倉殿を世にあらせ奉らむとて、我身も流人でありながら、院宣伺うて奉らんとて、京へ上るに、案内もしらぬ富士川の尻に夜わたりかかッて、既におしながされんとしたりし事、高市の山にて引剥にあひ、手をすッて命ばかりいき、福原の籠の御所へ参り、前右兵衛督光能卿につき奉つて、院宣申しいだいて奉りしときの約束には、「いかなる大事をも申せ。聖が申さむ事をば、頼朝が一期の間は適へん」とこその給ひしか。其後もたびたびの奉公、かつは見給ひし事なれば、事あたらしうはじめて申すべきにあらず。契を重うして命を軽うず。鎌倉殿に受領神つき給はずは、よもわすれ給はじ」とて、その暁立ちにけり。

~斎藤五・斎藤六是をきき、聖を生身の仏の如く思ひて、手を合せて涙をながす。いそぎ大覚寺へ参つて此由申しければ、是をきき給ひける母うへの心のうち、
いか斗かはうれしかりけん。されども鎌倉のはからひなれば、いかがあらむずらんとおぼつかなけれども、当時聖の頼もし気に申して下りぬるうへ、廿日命ののび給ふに、母うへ・めのとの女房少し心もとりのべて、ひとへに観音の御助けなれば頼もしうぞ思はれける。


道中の文覚や彼と頼朝との間のことは触れられないまま、すでに二十日が過ぎたと語られる。時政は仕方なく六代を斬首する決意をする。しかしていよいよ六代の首を切ろうとする段になって、文覚が馬にまたがって急ぎ帰り来り、六代の身柄を文覚に引き渡すべき旨を記した頼朝の書状を見せる。かくして六代は危機一髪のところで命拾いをするのである。


~既に今はの時になりしかば、若君西に向ひ手を合せて、静かに念仏唱へつつ、頸をのべてぞ待ち給ふ。狩野工藤三親俊切手にえらばれ、太刀を引つそばめて、右の方より御うしろに立ちまはり、既にきり奉らむとしけるが、目もくれ心も消えはてて、いづくに太刀を打ちあつべしともおぼえず。前後不覚になりしかば、「仕つとも覚え候はず。他人に仰付けられ候へ」とて、太刀を捨ててのきにけり。「さらばあれきれ、これきれ」とて、切手をえらぶ処に、墨染の衣袴きて月毛なる馬に乗つたる僧一人、鞭をあげてぞ馳せたりける。既に只今切り奉らむとする処に馳せついて、いそぎ馬より飛びおり、しばらくいきを休めて、「若君ゆるさせ給ひて候。鎌倉殿の御教書是に候」とて取り出だして奉る。披いて見給へば、まことや

小松三位中将維盛卿の子息尋出されて候ふなる、高雄の聖御房申しうけんと候。疑ひをなさずあづけ奉るべし。北条四郎殿へ  頼朝
とて御判あり。二三遍おしかへしおしかへし読うで後、「神妙々々」とて打ち置かれければ、「斎藤五・斎藤六はいふに及ばず、北条の家子郎等共も皆悦びの涙をぞ流しける。


文覚の働きによって命を助けられた六代は、出家してひっそりと暮らした。文覚上人のほうは、相変わらず権力におもねることなく言いたい放題の言動を続けたかどで隠岐の島に流されたりする。そのうち頼朝が死ぬと、もはや六代を庇護できるものは誰もいなくなり、六代はついに殺されてしまう。かくして平家は完全に滅亡することとなったのである。



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