日本語と日本文化


判官都落:平家物語巻第十二


土佐坊が義経に殺されたことを知った頼朝は、弟の範頼に命じて義経を討たそうとするが、範頼はなにかと言いつくろって言うことを聞かない。そこで怒った頼朝は範頼を殺してしまう。一方身の危険を感じた義経は、京都を出て九州へ避難しようと思う。そこで九州の豪族たちが義経の意向に従うよう、法皇に院宣を書いてもらう。法皇や公卿たちは、とにかく災いのもとである義経を都からいなくなって欲しい一年で、義経の願いを入れて院宣を与えてしまうのである。

義経は五百騎あまりを従えて都を出発、摂津の大物の浦から船に乗って九州に向かおうとする。その手前で摂津源氏太田頼基と一戦を交えてこれを撃退する。しかし、大物の浦を出た船は、すさまじい逆風のために、摂津の浜に漂着してしまう。義経はそこから吉野に向かうが、吉野法師に追われて奈良に転じ、そこでも奈良法師に追われて、再び京都へ戻ってしまう。だが京都へはいられない。仕方なく、奥州の藤原氏を頼って、北国へと逃れていく。

義経と入れ替わりに、北条時政が京都へ入り、法皇に義経追討の院宣をもらう。つい前に義経に頼朝への反旗を認める院宣を出したばかりなのに、今度はその義経を追討すべき院宣を出したと言うので、京都の人々はみな世間の不定を感じたのであった。

~同十一月二日、九郎大夫判官院御所へ参つて、大蔵卿泰経朝臣をもッて奏聞しけるは、「義経君の御為に奉公の忠を致す事、ことあたらしう初めて申上ぐるに及び候はず。然るを頼朝、郎等共が讒言によッて、義経をうたんと仕候間、しばらく鎮西の方へ罷下らばやと存候。院庁の御下文を一通下し預り候ばや」と申しければ、法皇「此条頼朝がかへりきかん事いかがあるべからむ」とて、諸卿に仰合せられければ、「義経都に候ひて、関東の大勢みだれ入り候はば、京都の狼藉絶え候ふべからず。遠国へ下り候ひなば、暫く其恐れあらじ」と、各々一同に申されければ、緒方三郎を召して、臼杵・戸次・松浦党、惣じて鎮西のもの、義経を大将として其下知にしたがふべきよし、庁の御下文を給はッてンげれば、其勢五百余騎、あくる三日卯刻に京都にいささかの煩ひもなさず、浪風もたてずして下りにけり。

~摂津国源氏、太田太郎頼基「わが門の前をとほしながら、矢一つ射かけであるべきか」とて、川原津といふ所に追つついて攻め戦ふ。判官は五百余騎、太田太郎は六十余騎にてありければ、なかにとりこめ、「あますな漏らすな」とて、散々に攻め給へば、太田太郎我身手おひ、家子郎等多くうたせ、馬の腹射させて引退く。判官頸どもきりかけて、戦神にまつり、「門出よし」と悦んで、大物の浦より船に乗つて下られけるが、折節西のかぜはげしくふき、住吉の浦にうちあげられて、吉野のおくにぞこもりける。吉野法師に攻められて、奈良へおつ。奈良法師に攻められて、又都へ帰り入り、北国にかかッて、終に奥へぞ下られける。

~都よりあひ具したりける女房達十余人、住吉の浦に捨ておきたりければ、松の下、まさごのうへに袴ふみしだき、袖を片敷いて泣きふしたりけるを、住吉の神官共憐んで、みな京へぞ送りける。凡そ判官の頼まれたりける伯父信太三郎先生義憲・十郎蔵人行家・緒方三郎維義が船共、浦々島々に打ちよせられて、互にその行方を知らず。忽に西のかぜふきける事も、平家の怨霊の故とぞおぼえける。

~同十一月七日、鎌倉の源二位頼朝卿の代官として、北条四郎時政、六万余騎を相具して都へ入り、伊予守源義経・備前守同行家・信太三郎先生同義憲追討すべきよし奏聞しければ、やがて院宣をくだされけり。去二日は義経が申しうくる旨にまかせて、頼朝をそむくべきよし庁の御下文をなされ、同八日は頼朝卿申状によッて、義経追討の院宣を下さる。朝にかはり夕に変ずる世間の不定こそ哀れなれ。


義経の逃避行は、能や歌舞伎のいい材料となった。能についていえば、大物の浦からの船出は「船弁慶」、吉野での出来事は「吉野静」、北国への逃走は「安宅」などで取り上げられているところだ。


  
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