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先帝身投:平家物語巻第十一



(平家物語から 先帝御入水)

壇の浦の戦いは、当初は平家が圧倒的に優勢だった。だがやがて、空から白旗が舞い降りてきたり,海豚の大群が不思議な行動をしたりして、源氏の勝利が予言されると、それをきっかけにするように、源氏が攻勢に転じた。その様子に促されて、阿波重能が裏切ったのをはじめとして、四国、九州の武将も次々と源氏方に寝返った。

かくして優勢をなった源氏の兵士たちは、次々と平家の船に飛び移り、敵を追い詰めてゆく。その様子を見ていた新中納言知盛は、負けいくさに見苦しい様を敵に見せるなと言って、女たちに海へ入るように促す。

安徳天皇のそばにいた二位殿(清盛の妻時子)は、孫である天皇を励まして、念仏を唱えた上で入水するように勧める。天皇はその言葉に従って、海中深く身を投げ、ここに平家が滅亡したことを、人々に悟らせたのである。


~源氏の兵ども、すでに平家の舟にのりうつりければ、水手梶取ども、射ころされ、きり殺されて、船を直すに及ばず、舟ぞこに倒れふしにけり。新中納言知盛卿小船に乗つて御所の御舟に参り、「世のなかいまはかうと見えて候。見ぐるしからん物どもみな海へ入れさせ給へ」とて、艫舳に走りまはり、掃いたり、拭うたり、塵拾ひ、手づから掃除せられけり。女房達「中納言殿、いくさはいかにやいかに」と口々にとひ給へば、「めづらしきあづま男をこそ御らんぜられ候はんずらめ」とて、からからと笑ひ給へば、「なんでうのただいまの戯れぞや」とて、声々に喚き叫び給ひけり。

~二位殿はこの有様を御らんじて、日ごろ思し召しまうけたる事なれば、鈍色の二つ衣うちかづき、ねりばかまのそばたかく鋏み、神璽をわきに鋏み、宝剣を腰にさし、主上をいだき奉つて、「わが身は女なりとも、敵の手にはかかるまじ。君の御ともに参るなり。御心ざし思ひ参らせ給はん人々は、いそぎつづき給へ」とて、ふなばたへ歩みいでられけり。主上ことしは八歳にならせ給へども、御年の程よりはるかにねびさせ給ひて、御かたちうつくしく、あたりも輝くばかり也。御ぐし黒うゆらゆらとして、御せなかすぎさせ給へり。あきれたる御さまにて、「尼ぜ、われをばいづちへ具してゆかんとするぞ」と仰せければ、いとけなき君に向ひ奉り、涙をおさへ申されけるは、「君はいまだ知ろし召されさぶらはずや。先世の十善戒行の御ちからによッて、今万乗のあるじと生れさせ給へども、悪縁にひかれて、御運既につきさせ給ひぬ。まづ東に向はせ給ひて、伊勢大神宮に御いとま申させ給ひ、其後西方浄土の来迎にあづからんと思し召し、西に向はせ給ひて、御念仏候ふべし。この国は心うき境にて候へば、極楽浄土とてめでたき処へ具し参らせ候ふぞ」と、泣く泣く申させ給ひければ、山鳩色の御衣にびんづらゆはせ給ひて、御涙におぼれ、小さくうつくしき御手をあはせ、まづ東をふし拝み、伊勢大神宮に御とま申させ給ひ、其後西に向はせ給ひて、御念仏ありしかば、二位殿やがていだき奉り、「浪のしたにも都の候ふぞ」となぐさめ奉つて、千尋の底へぞいり給ふ。

~悲しき哉、無常の春の風、忽に花の御すがたを散らし、なさけなきかな、分段のあらき浪、玉体をしづめ奉る。殿をば長生と名づけてながきすみかとさだめ、門をば不老と号して、老いせぬとざしと説きたれども、いまだ十歳のうちにして、底の水屑とならせ給ふ。十善帝位の御果報、申すもなかなかをろかなり。雲上の竜くだッて海底の魚となり給ふ。大梵高台の閣のうへ、釈提喜見の宮の内、いにしへは槐門棘路のあひだに九族をなびかし、今は船のうち、浪のしたに御命を一時にほろぼし給ふこそ悲しけれ。


安徳天皇は八歳の年齢にもかかわらず大人びて見えたと言われているが、その言葉はまだ幼さを感じさせる。祖母の言葉とはいえ、その言葉を信じ、念仏を唱えながら何の疑いもなく死んでゆく姿に、平家物語は仏教的な無常観を重ね合わせているようである。



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