日本語と日本文化


千手:平家物語巻第十


平重衡は生け捕りにされたが、それは彼の命と引き換えに三種の神器をとりもどそうという配慮からだった。後白河法皇はその旨を記した院宣を平家の一門に届けさせるが、一門では会議を開いた結果申し出を拒絶することとした。

重衡は出家を望んだが、源氏がそれを許すはずはない。だが法然上人との面会が許され、上人から受戒することができた。

その後重衡は鎌倉に護送される。その途中東海道を下っていく場面を語る「海道下り」の一節は、道行文の名作と言える。

鎌倉入りした重衡は頼朝と対面。堂々とした振舞で頼朝を感心させた。そこで頼朝は、重衡の無聊を慰めてやろうと、千手という名の遊女をさしむける。この遊女はなかなか教養のある女性で、琴を弾じ、漢詩を朗詠しては重衡を喜ばせた。

~その夕雨すこしふッて、よろづ物さびしかりけるに、件の女房、琵琶・琴もたせて参りたり。狩野介酒をすすめ奉る。我身も家子郎等十余人ひき具して参り、御まへちかう候ひけり。千手の前酌をとる。三位中将すこしうけて、いと興なげにておはしけるを、狩野介申しけるは、「かつ聞し召されてもや候ふらん。鎌倉殿の「相構へてよくよくなぐさめ参らせよ。懈怠にて頼朝恨むな」と仰せられ候。宗茂はもと伊豆国のものにて候あひだ、鎌倉では旅に候らへども、心の及び候はんほどは、奉公仕候ふべし。何事でも申してすすめ参らさせ給へ」と申しければ、千手酌をさしおいて、「羅綺の重衣たる、情ない事を奇婦に妬む」といふ朗詠を一両反したりければ、三位中将の給ひけるは、「この朗詠せん人をば、北野の天神一日に三度かけッてまぼらんとちかはせ給ふ也。されども重衡は、此生ではすてられ給ひぬ。助音してもなにかせん。罪障かろみぬべき事ならばしたがふべし」との給ひければ、千手前やがて、「十悪といへども引摂す」といふ朗詠をして、「極楽願はん人はみな、弥陀の名号となふべし」といふ今様を四五反歌ひすましたりければ、其時坏をかたぶけらる。

~千手前給はッて狩野介にさす。宗茂がのむ時に、琴をぞひきすましたる。三位中将の給ひけるは、「この楽をば普通には五常楽といへども、重衡がためには後生楽とこそ観ずべけれ。やがて往生の急を弾かん」と戯れて、琵琶をとり、転手をねぢて、皇章の急をぞひかれける。夜やうやうふけて、よろづ心の澄むままに、「あら、思はずや、あづまにもこれほど優なる人のありけるよ。何事にても今一声」との給ひければ、千手前又「一樹のかげにやどりあひ、おなじながれをむすぶも、みなこれ先世の契」といふ白拍子を、まことにおもしろくかぞへ澄ましたりければ、中将も「燈闇うしては、数行虞氏の涙」といふ郎詠をぞせられける。たとへばこの郎詠の心は、昔もろこしに、漢高祖と楚の項羽と位をあらそひて、合戦する事七十二度、戦ひごとに項羽かちにけり。されども遂には項羽戦ひまけてほろびける時、騅といふ馬の、一日に千里をとぶに乗つて、虞氏といふ后とともににげさらんとしけるに、馬いかが思ひけん、足をととのへて働かず。項羽涙を流いて、「わが威勢すでにすたれたり。いまは逃るべきかたなし。敵のおそふは事のかずならず、この后に別れなん事のかなしさよ」とて、夜もすがらなげきかなしみ給ひけり。燈くらうなりければ、心ぼそうて虞氏涙をながす。夜ふくるままに軍兵四面に時をつくる。この心を橘相公の賦につくれるを、三位中将思ひいでられたりしにや、いとやさしうぞ聞えける。


千手は重衡との出会いを大事に思い、後に重衡が死んだと聞くと、出家して尼になった。なお、千手と重衡にかかわるこの一節は、能にもなっている(千手)。




  
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