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法住寺合戦:平家物語巻第八



(平家物語絵巻から 法住寺合戦)

義仲の横暴さに手を焼いていた後白河法皇は、壱岐判官知康を遣わして諌めたが、義仲は知康を侮辱して追い返した。そこで知康から義仲討伐を直訴された法皇は、ついに義仲討伐に踏み切った。しかし、法皇側に参じたのは、僧兵や無頼漢たちという有様だった。

そんな法皇の軍に対して戦いを挑むのは、いくらなんでもまずいと言って腹心の今井兼平は制止したが、怒り狂った義仲は、法皇の軍を攻撃することに踏み切った。その結果は、法皇軍の惨敗であった。

戦後、義仲は六条河原に敗者の首をさらした。天台座主明運や三井寺の管長はじめその数は六百三十余りにのぼった。

法皇に勝利して血が頭に上った義仲は、自分こそが日本の支配者として、法皇や天皇になるにふさわしいと豪語したが、実際には法皇の厩を預かる別当の役職で我慢した。また、身分上の箔をつけるために、前関白松殿の娘と縁組し、松殿の婿と称した。


~あくる廿日、木曾左馬頭六条川原に打つ立つて、昨日きるところの頸ども、かけならべて記いたりければ、六百卅余人也。其中に明雲大僧正・寺の長吏円慶法親王の御頸もかからせ給ひたり。是を見る人涙をながさずといふことなし。木曾其勢七千余騎、馬の鼻を東へむけ、天も響き大地もゆるぐ程に、時をぞ三ケ度つくりける。京中又騒ぎあへり。但是は悦びの時とぞ聞えし。

~故少納言入道信西の子息宰相長教、法皇のわたらせ給ふ五条の内裏に参つて、「是は君に奏すべき事があるぞ。あけて通せ」とのたまへども、武士共ゆるし奉らず。力及ばである小屋に立ちいり、俄に髪そりおろし法師になり、墨染の衣袴きて、「此上は何か苦しかるべき、入れよ」との給へば、其時ゆるし奉る。御前へ参つて、今度討たれ給へるむねとの人々の事どもつぶさに奏聞しければ、法皇御涙をはらはらとながさせ給ひて、「明雲は非業の死にすべきものとは思し召さざりつる物を。今度はただわがいかにもなるべかりける御命に変りけるにこそ」とて、御涙せきあへさせ給はず。

~木曾、家子郎等召しあつめて評定す。「抑義仲一天の君に向ひ奉りて軍には勝ちぬ。主上にやならまし、法皇にやならまし。主上にならうど思へども、童にならむもしかるべからず。法皇にならうど思へ共、法師にならむもをかしかるべし。よしよしさらば関白にならう」ど申せば、手かきに具せられたる大夫房覚明申しけるは、「関白は大織冠の御末、藤原氏こそならせ給へ。殿は源氏でわたらせ給ふに、それこそ叶ひ候まじけれ」。「其上は力及ばず」とて、院の御厩の別当に押しなッて、丹波国をぞ知行しける。院の御出家あれば法皇と申し、主上のいまだ御元服もなき程は、御童形にてわたらせ給ふをしらざりけるこそうたてけれ。前関白松殿の姫君とり奉つて、軈て松殿の聟に押しなる。

~同十一月廿三日、三条中納言朝方卿をはじめとして、卿相雲客四十九人が官職を留めて追つ籠め奉る。平家の時は四十三人をこそ留めたりしに、是は四十九人なれば、平家の悪行には超過せり。


義仲が四十九人もの公卿を罷免したのは、彼等が法皇の暗黙の支持者と考えたからだろう。つまり、怒りからするお仕置きのつもりなわけだ。それに対して清盛のほうは、四十三人の公卿にかえて、自分の一族を抜擢したわけである。



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