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経正都落:平家物語巻第七



(平家物語絵巻から 経正都落)

都落する平家の一門の中で、忠度とならんで風流を感じさせるものは経盛の長男経正である。忠度が和歌の道を志したのに対して、経正は音楽の名手だった。経正は幼少の頃から、仁和寺の御室(後白河法皇の皇子守覚法親王)に親しく愛されていた。そこで、都落ちするにあたり、仁和寺に立ち寄って御室に別れの挨拶をする傍ら、青山という琵琶の名器を託した。

青山とは、唐から伝来した琵琶で、村上天皇が唐人であるその持ち主から直接秘曲を伝授されたいわれがある。経正はその琵琶を、宇佐八幡に使いした折に、社前で弾じたことがあった。

平家物語「経正都落」の章は、御室に琵琶を託す経正の風流心と、彼との別れを惜しむ仁和寺の人々との交流を語っている。


~修理大夫経盛の子息、皇后宮の亮経正、幼少にては仁和寺の御室の御所に、童形にて候はれしかば、かかる怱劇の中にも其御名残きッと思ひ出でて、侍五六騎めし具して、仁和寺殿へ馳せ参り、門前にて馬よりおり、申入れられけるは、「一門運尽きてけふ既に帝都を罷出で候。うき世に思ひのこす事とては、ただ君の御名残ばかり也。八歳の時参りはじめ候ひて、十三で元服仕候までは、あひいたはる事の候はん外は、あからさまにも御前を立ちさる事も候はざりしに、けふより後、西海千里の浪に赴むいて、又いづれの日いづれの時帰り参るべしともおぼえぬこそ、口惜しく候へ。今一度御前へ参つて、君をもみ参らせたう候へ共、既に甲冑を鎧ひ、弓箭を帯し、あらぬさまなるよそおひに罷成りて候へば、憚り存候」とぞ申されける。

~御室哀れに思し召し、「ただ其すがたを改めずして参れ」とこそ仰せけれ。経正、其日は紫地の錦の直垂に、萌黄の匂の鎧きて、長覆輪の太刀をはき、切斑の矢負ひ、滋藤の弓わきにはさみ、甲をばぬぎたかひもにかけ、御前の御坪に畏る。御室やがて御出あッて、御簾たかくあげさせ、「是へこれへ」とめされければ、大床へこそ参られけれ。供に具せられたる藤兵衛有教をめす。赤地の錦の袋に入れたる御琵琶もッて参りたり。経正是をとりついで、御前にさしをき、申されけるは、「先年下しあづかッて候ひし青山もたせて参つて候。あまりに名残は惜しう候へ共、さしもの名物を田舎の塵になさん事、口惜しう候。若し不思儀に運命ひらけて、又都へ立帰る事候はば、其時こそ猶下だしあづかり候はめ」と泣々申されければ、御室哀に思し召し、一首の御詠を遊ばいてくだされけり。
  あかずしてわかるる君が名残をばのちのかたみにつつみてぞ置く 
経正御硯くだされて、
  くれ竹のかけひの水はかはれども猶すみあかぬみやの中かな 
さていとま申して出でられけるに、数輩の童形・出世者・坊官・侍・僧に至るまで、経正の袂にすがり、袖をひかへて、名残ををしみ涙をながさぬはなかりけり。

~其中にも、経正の幼少の時、小師でおはせし大納言法印行慶と申せしは、葉室大納言光頼卿の御子也。あまりに名残を惜しみて、桂河のはたまでうち送り、さてもあるべきならねば、其よりいとま乞うて泣々わかれ給ふに、法印かうぞ思ひつづけ給ふ。
  あはれなり老木わか木の山ざくら遅れ先立ち花はのこらじ
経正の返事には、
  旅ごろも夜な夜な袖をかたしきて思へばわれは遠くゆきなん
さて巻いてもたせられたる赤旗ざッと差し上げたり。あそこここにひかへて待ち奉る侍共、あはやとて馳せあつまり、その勢百騎ばかり、鞭をあげ駒をはやめて、程なく行幸におッつき奉る。


能「経正」は、西海で死んだ経正が、幽霊となって仁和寺に現われ、御室や僧侶行慶の前で琵琶を弾じるという趣向になっている。



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