日本語と日本文化


鼠に関する民俗と信念:南方熊楠「十二支考」


南方熊楠は「十二支考」の最後の論文「鼠に関する民俗と信念」を、十二支のそもそものいわれから説き起こす。子年が十二支の嚆矢をなすという理由からだろう。そのいわれについて、熊楠は次のように書きだす。

「子の年は鼠,丑の年は牛と、十二支に十二禽を割り当る事、古く支那に起って、日本・朝鮮・安南等の隣国に及ぼし、インドやメキシコにも多少似寄った十二物を暦日に配当した事あれど、支那のように方位に配当したときかぬ」

十二支に方位をあてたのは、十二支が十二禽のみならず、他の現象とも係わりがあると信じられていたからだろう。それには、十二支がそもそも抽象的なことがらとして理解されていたという事情があったのだろう。

支那で十二支が成立したのは周の時代だと熊楠は推測している。その時点では十二支と十二禽はまだ結びついてはいなかった。十二支がまず結びついたのは、十干の本たる木火土金水の五行であり、そこから干支の体系が生まれた。この体系(陰陽五行説)は高度に抽象的であって、しかも自然万物を説明する原理ともなった。その一つが方位であって、古代の支那人は、方位を十二に分割し、それぞれに十二支を割り当てたのである。

十二支に十二禽が結びついたのはずっと後のことであるに違いない。ところが一旦十二支が具体の禽獣と結びつくと、子の年には鼠に関したさまざまな話が結びつき、丑年には牛に関した様々な話が結びつくようになる、それは、人間という者が本来持っている傾向のようなものである。そう熊楠は断ったうえで、鼠に関する世界各地の民俗と信念とを紹介していくのである。

熊楠が最初に紹介するのは、支那の鼠の嫁入りを祝う行事である。これは新年の始めに当たって、鼠の嫁入りをお祝いし、その間は鼠をいじめたりしないようにこころがけるというものである。日本にも鼠の嫁入りの話はあるが、新年行事として行っている例はない。

こんな行事を行うわけは、鼠の害を防ぐことに目的があるので、年の初めに鼠の御機嫌を伺うことで、今後一年鼠害を控えてもらいたいという気持の現れだというのである。

また地方によっては、虫焼きという行事が行われる。これは蟄居している虫やその卵を焼き払う目的で行われるが、その虫の中には鼠も含まれる。というのは、古代支那では、虫と言えば今日の「虫」と云う言葉とは異なり、獣一般をさす言葉でもあった。なかでも鼠は虫の中の虫として表象せられたのである。

鼠の嫁入りといい、虫焼きといい、焦点となっているのは鼠の害である。鼠はどこでも悪さを働く生き物だが、とりわけ農耕民族にとっては、太古からの仇敵だった。その鼠をいかにコントロールできるか、それは人類の祖先たちにとって重大な関心事であり続けた。

しかし鼠も悪い事ばかりではない。それは黴菌にもいいところがあるのと同じであるとして、熊楠は次のように言う。「多くの菌類やばい菌は、まことに折角人の骨折って拵えたものを腐らせ悪むべきの甚だしきだが、これらが全くないと物が腐らず、世界が死んだもので塞がってニッチもサッチもならず。そこを発酵変化分解せしめて、一方に多く新たに発生する者に養分を供給するから実際一日もならぬものだ」

同じ理屈で、「鼠というものなくば大都市は困るであろう。地下の溝に日々捨て流す無量の残食を鼠が絶えず食うからどうやらこうやら流行病も起らぬ、それ故適宜にその過殖を制したら鼠は最も有用な動物だ」というわけだが、一方では、その鼠がペストを媒介することも認めている。

仏像の中で鼠と縁が深いのは大黒天だ。そういって熊楠は、今度は大黒天の話を延々と展開する。大黒天は何故か支那でも日本でも厨の神様にされているが、そのことから鼠との因縁が生じたらしい。大黒天のトレードマークである大槌は、鼠の頭を叩き割るためにあるものだ。

その大黒天は、日本に渡ると大国主と結びついた。大国主も食料のいっぱい詰まった袋を持っていたとされ、そこが大黒天のイメージと結びついたわけだ。

仏教の本場インドでは、大黒天の原像はガネサという神であったという。ガネサは槌ではなく斧をもって鼠に乗っている姿でイメージされる。その斧で、やはり鼠を打ち殺すのである。

かように鼠は忌み嫌われることが多いのであるが、中には鼠を崇拝する文化がないわけではない。熊楠はその例として、西半球や中央アジアの未開民族をあげているが、支那でもその例がないわけではないという。それは、鼠と毘沙門の結びつきをきっかけにしている。毘沙門は北を守護する神だが、北は鼠に割り当てられた方位である。ここから鼠が毘沙門に結びついた。毘沙門は軍の神であるから、鼠は毘沙門と一緒になることで、崇拝の対象に上っていったわけである。

日本人は鼠を食うことはないが、支那人は食ったようだ。ただ、「明の李時珍が、嶺南の人は、鼠を食えどその名を忌んで家鹿と謂うと言った。して見ると鼠は支那で立派な上餞ではない」

このようにして、鼠を論じ来った後に、熊楠は次のように総括する。

「およそ鼠ほど嫌い悪まるる者は少ないが、段々説いたところを総合すると、世界の広き、鼠を食って活き居る人も多く、迷信ながらこれを神物として種々の伝説物語を生じた民もあり、鼠も全く無益なものでないと判る」




  
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