日本語と日本文化


鷲石考:南方熊楠の世界


「鷲石考」と「燕石考」は姉妹論文のような関係にある。「燕石考」が、燕と関連付けられた燕石が子燕の盲を治療することから発して広く医療的な効果を持たされるに至ったことの民俗学的な背景を論じているのに対して、この論文は、鷲と関連つけられた鷲石が何故出産とそれにかかわるもろもろのことがらと結び付けられるに至ったかについて考察している。そしてその両者の考察を通じて熊楠は、人間の想像力が自然に働きかける際の、普遍的なパターンを摘出するわけなのである。

鷲石にまつわる伝承はとりあえずヨーロッパに広まっている。中国には鷲石そのものの伝承はないが、それと似たような話はある。禹余糧と呼ばれているものだ。日本では孕石というものがほぼこれらに対応している。そこで熊楠はこれらの伝承に潜んでいる共通点と相違点を摘出することに取り掛かるわけだ。

ヨーロッパで鷲石と呼ばれているものは、扁平な形状の石のようなもので、内部に空洞があり、そこに小石が入っている。それが子を孕んだように見えることから、人間の出産と結び付けられるようになった。この石の正体は褐鉄鉱で、鷲が巣くうような洞窟によく見られる。そこから鷲と結びついて鷲石と呼ばれるようになり、その鷲石に、出産やそのほかの効用が結び付けられるようになったわけである。

熊楠はヨーロッパ各地に伝えられている鷲石の効用についていくつか紹介しているが、それがなかなか面白い。鷲石を腰に帯びれば安産するというのはもっともわかりやすいが、そこから進んで鷲石は多産をもたらすとか、性欲を高進させるとかいう話もある。また鷲石を粉にして飲ませると、嘘がばれるという話があるが、これは心の中に含んでいるものと、石の中に孕んでいるものとの間にアナロジーが働いた結果だろう。熊楠はこのアナロジーこそが、多くの伝承の基礎に横たわっている最大の要因だと常々考えていたのである。

ギリシャ神話には、トロイの王子ガニメデスの容貌を愛でたゼウスが鷲にこれをさらってこさせ自分の男色相手にしたという話がある。これは繁殖とは無縁の話だが、鷲が古代からセックスと結び付けられていたことの例にはなる。この神話と鷲石伝承とどちらが古いのかわからぬが、ヨーロッパにおいては、鷲を性や繁殖と結びつけるアナロジーが古くから成立していたことを伺わせる。

中国では、鷲石に相当する石は禹余糧と呼ばれている。むかし禹王が会稽の地で宴会を催した時、余った食料を江中に捨てたところが、それが化石となったので禹余糧と呼ばれるようになったというのである。小野蘭山によればこの石は「はなはだ硬く、黄黒褐色にして、打ち破れば鉄色あり。その内空虚にして、細粉満てり」というから、ヨーロッパでいう鷲石と同じなわけだが、中国人はヨーロッパ人と異なり、これを鷲と結びつけることはしなかったのである。中国人には、鷲を性と結びつけるという発想がなかったためかもしれない。

中国人も、この石の形が母胎に子を宿すに似ているところから、これを催生安産の霊物としたが、ヨーロッパ人とは異なり、これを昔の聖人が食い残した食物と結びつけたことから、長生して仙人になれる特効薬と考えるようにもなった。また、その成分の鉄が栄養源とて相当に働くことから、これに広い薬効を結びつけるようにもなった。鷲石をもっぱらセックスや繁殖と結びつけたヨーロッパ人とは、アナロジーの働く範囲が多少ずれていたわけであろう。

日本には孕石というものがあるが、これを柳田国男がとりあげて解説しているところを熊楠は紹介するにとどめている。それによれば、「諸国に小石団結して大岩となったのが、風雨に削られて時々多少の小石を落すを、石が子を産むと誤り、産婦安産のまじないに用いて子持石と名づく」ということである。「小石団結して大岩となる」とは、さざれ石が巖となるの歌と同じような趣旨だろうか。

さて、この鷲石と燕石との間には、どのようなアナロジーが働いているか。どちらも石を媒介にして特定の効用と結びついている。石が鷲と燕とを結び付けているわけである。しかしその結びつき方は、燕と鷲とでは異なる。燕の場合には子燕の盲を治療するということが中核になって医療的効用が強調されるのに対して、鷲のばあいには性と繁殖のイメージが強調されている。それが石からの直接のアナロジーではなく、媒介者である燕や鷲からの連想であることは間違いなかろう。ヨーロッパにおいては、燕はそのまめな子育ての様子から子育てのシンボルのようなイメージが強く、それが小児科医療を中心とした医療のイメージへと展開し、鷲の場合には古来好色のイメージがまとわりついていたことに見られるとおり、そもそも性や繁殖と結びつきやすい条件を備えていたのだろう。だからこそ、それぞれについて上述のようなアナロジーが強力に働いたのだろうと思われるのである。

熊楠は「燕石考」の中で燕を水と関連付けていた。一方鷲については火と関連づけている。燕は冬の間地中で冬眠し春になると目覚めると思われていた。こうしたとらえ方は、植物のバイオリズムを想起させる。燕は植物のように、一定のバイオリズムに従って反復的に行動する。一方鷲は冬眠することなく一年中大空高く飛び回っている。鷲は大空を太陽に近く飛ぶことで火のイメージと結びつくのだ。燕は水の潤いと結びついているのに対して、鷲は火とそれがもたらす乾燥と結びつく。鷲石は乾燥した自然が作り出した「天然のマラカス(中沢新一)」なのである。

以上から見えてくるのは、燕石と鷲石とのこの一対の石について、熊楠は一方では両者に共通したアナロジーをみるとともに、両者を対立させる原理をも見ている、ということだ。人間というものは、ある二つのものが与えられた時に、それらを比較解釈する原理として、ひとつには両者に共通する特徴を発見することでそれらを結びつけるというやり方があり、他方ではそれらを互いに異ならせている特徴を発見することで両者を対立させようとするやり方もある。前者を総合の原理、後者を分析の原理ということができる。

人間の想像力というものは、アナロジーを中核にして、それを総合と分析という対立する原理をとおして解釈するという特徴を持っている。だから世界中に広がっている様々な伝承の間に共通点が多く見られるのは不思議ではない。なぜならそれは人間というものに備わった普遍的な原理に従って構成されているからだ。熊楠はそういいたいようなのである。




  
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