日本語と日本文化


沈黙:遠藤周作の切支丹小説


「沈黙」は遠藤周作の代表作ということになっている。この小説は英語などにもいち早く翻訳され、ノーベル賞の候補にも上ったほどだったという。第三の新人の中では、最も国際的な反響が高かったということだろう。というのも、この小説は日本におけるキリスト教弾圧の歴史の一局面を描き出すことを通じて、人間の信仰という普遍的な問題を深く追求したものであり、それがキリスト教文化圏の人々にストレートに伝わったからなのだろうと思う。

遠藤周作がこの小説のモチーフとして取り上げたのは、島原の乱の後に日本にやってきたポルトガル人司祭の殉難とその結果としての棄教という不幸な事態である。この小説の主人公であるロドリゴは実在した人物をモデルにしている。1643年に筑前に上陸したキャラという名の神父である。

この神父については、寺島実郎氏が先日発行の雑誌「世界」の中で紹介していた。それによれば、キャラは、マルケス、アロヨ、カッソラの三人の神父と共に筑前に上陸した後捕えられて、日本の官憲の巧妙な尋問と誘導に屈して全員が転び、つまり棄教し、江戸小日向の通称切支丹屋敷に幽閉され、日本名と日本人妻を与えられて、生涯を送ったということだ。(それからの切支丹―17世紀オランダからの視界「世界」2013年10月号)。

寺島氏によれば、日本の切支丹弾圧が厳しさを増したのは天草・島原の乱(1637~38)の影響が大きいということらしい。徳川幕府はこの大規模な切支丹農民の一揆にてこずり、それを煽動したキリスト教というものに恐怖感を抱いた。その恐怖感が切支丹に対する激しい弾圧をもたらしたというのだ。天草・島原の乱では2万7000人の切支丹農民が殺されたが、その後徳川時代を通じて処刑された切支丹は五~六千人といわれ、斬首、火あぶり、吊るしなどの残酷な方法で殺された。

一方、カトリックの宣教者に対する弾圧もすさまじく、多くが殉教したり、あるいは追放されたりしたが、なかでもイエズス会などカトリックにとってショッキングだったのは、フェレイラ神父の棄教(1633)であった。これは天草・島原の乱以前に起きているが、長く日本布教の責任者を勤めていたフェレイラ神父が、他の七人の聖職者と共に「穴吊り」にされ、他の聖職者は信仰を守り通して殉教したが、フェレイラだけは五時間で失神して転び、背教者となったという事件だった。

遠藤周作は、二つの実在した事態、キャラ司祭の棄教とフェレイラ神父の棄教とをからませて、この小説の骨格とした。キャラ司祭はロドリゴという名に変えてあるが、フェレイラ神父の方は歴史上の人物としてそのままの名前で登場させている。

小説は、前半がロドリゴ司祭の書いた手紙、後半が通常の三人称による叙述という方法をとっており、最後の部分で、オランダ商館員と切支丹屋敷役人の日記というものが添付されている。司祭の手紙では、日本への布教を決意した理由とか、日本上陸後の逃亡生活、そして一人の切支丹に裏切られて官憲に絡められるまでの様子が描かれており、後半はそれを引き取る形で、官憲による尋問と誘導の有様が描かれていく。その尋問の中でロドリゴは自分が日本にやって来た目的の一つだったフェレイラ神父との出会いを果たすのであるが、なんとフェレイラは棄教した挙句に、切支丹迫害の先棒を担ぐようになっていた。そのフェレイラの説得やら、自分のために拷問される農民の苦痛を見るに忍びなくなったロドリゴは、ついに自らの意思で棄教するという話が展開する。そして最後の部分で付け加えられた役人の日記からは、ロドリゴが切支丹屋敷に幽閉後に信仰を取り戻したばかりか、自分の周囲のものを改宗させたことをとがめられ、それがもとでふたたび棄教せざるを得ないような事態に自らを追い込んでいったということが仄めかされている。

この小説の迫力は、拷問の描写とともに、ロドリゴや日本人信徒たちの信仰と、ついには棄教せざるを得なかったロドリゴの、人間としての弱さを描いたところにあると言えよう。

ところで、「沈黙」という題名をつけたのには二つの理由があると遠藤自身が語っている(「背後をふりかえる時」)。ひとつは、ロドリゴのように結果的に信仰を裏切った者に対する後世の態度への批判であるという。日本の切支丹の歴史は立派な殉教者や強い信仰心をもった人々には賛辞を惜しまないが、ロドリゴのような棄教者の苦悩やこの小説に出てくるキチジローのような人間の苦しみについては、蔑視したり、憎んだり、あるいは黙殺してきた。その黙殺の影にかくされた沈黙が自分を創作へと駆り立てたというのである。

もう一つは、「神の沈黙」である。小説のいたるところでロドリゴが神に呼びかける言葉は、「あなたは何故沈黙しているのか」というものである。神は何故我々の真心をよみしたまい、手を差し伸べてくれないのか。何故我々を塗炭の苦しみのうちに置きざりにしたまま沈黙を続けられるのか。こうした疑問は、ひとり作中人物ロドリゴの疑問であるのみならず、カトリック教徒たる遠藤周作自身が日頃抱いていた疑問でもあったというのである。その疑問を小説のなかで取り上げて、それに対して何らかの答えを見つけたい。そんな思いからこの小説の創作に取り掛かったというのである。

だが筆者の見るところ、その疑問はクリアに応えられたとはいえないようだ。遠藤自身は、神は訴えに対して直接的には返事をしないが、「だからといってそれは氷のような沈黙をかたくなに守り続けていることではなく、目に見えぬ"働き"という形で答えているのである」と言っているが、その目に見えぬものを感じとることが出来るのは、キリスト者として強い信仰を抱けるものの特権ということか。

こういうわけで、この小説は日本文学の中では珍しく、キリスト教の信仰をテーマにしたものなのである。キリスト教といっても、切支丹といわれた日本のキリスト教であり、それも迫害という場を巡って裏側からあぶりだされるようにして現れ出てきた信仰の姿を描いたということだ。

それにしても、この小説の中で展開される迫害はすさまじい迫力で描かれている。信徒に対する官憲の暴力は勿論、一般民衆が示す切支丹への憎しみぶりもすさまじさを感じさせる。この民衆の切支丹に対する迫害ぶりについて、先の寺島氏の小論は、「"お上"(権力)の権威づけと"民衆"の無知が一体となって異端者の排除に向かうと異様な集団的狂気が爆発する傾向を日本の歴史は何回か繰り返している」といって、切支丹迫害もそうした集団的狂気の一つの例だとしている。けだしそういうことかもしれない。

なお、この小説における遠藤周作の文体は非常に抑制されたものだ。ロドリゴの手紙に託した部分も、事柄からして当然見られるべき個人的な感情の高揚は極力抑えつけられている。後半の叙述の部分はさらに抑制が聞いている。描かれた対象がそもそも悲惨さに満ちたことがらなので、それを描くには抑制された文章が相応しい、ということを非常に感じさせてくれた。


    

  
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