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砂の上の植物群:吉行淳之介の説明的文体


「砂の上の植物群」と言う一見奇妙なタイトルは、クレーの絵のタイトルからとったものだ。この小説の進行途中で、書き手の作家がいきなり割りこんできて、クレーの絵の講釈を始めるのだが、その絵の中の一枚に、このタイトルを冠したものがあった。それは、あのクレー独特のパターンを色鮮やかに描いたものなのだが、作家はその絵がことのほか気に入って、そのタイトルを自分の小説にも使ったというのだが、その小説とクレーの絵とが、どんなふうにつながっているのかは、明らかにしていない。

クレーの絵には、砂の上に群生する植物を連想させるものがないとはいえないが、吉行淳之介のこの小説には、それを連想させるようなものはイメージしにくい。この小説は男女の間の一風変わったセックスを描いているのだが、それがもし何かを連想させるとすれば、植物ではなく無脊椎動物だろう。イソギンチャクのようなヌメヌメとした無脊椎動物が互いにからみあう、そんなイメージだ。

だからこの小説には結構イマジネーティブなところがあるはずなのだ。はずだ、というのは読者にイマジネーションを喚起することに、必ずしも成功していないという意味である。この小説はイマジネーションを云々する以前に退屈させられてしまう類の作品である。つまり、小説として成功しているとはいえない。

何故成功していないか。それは読者が自分でこの小説を読んでみればすぐにわかることだ。小説というのは、おそらく読者の想像力に訴えることで成り立つものだと思うのだが、この作品は読者の想像力に訴えていない。そのかわりに、この小説は読者の理解力に訴えている。つまり、読者に向かって語りかけているのではなく、説明しているわけだ。物事の説明からは、理性的な反応は起こっても、情動的な感動は起こらない。

この作品は先ほども言ったようにかなりエクセントリックな事柄を描いているのだが、それでいてそのエクセントリックなところが素直に伝わってこない。それはあたかも、エクセントリックな犯罪が警察によって解明され、事件の概要が理路整然と説明されるに及んで、非日常性を失ってしまうようなものだ。吉行淳之介のこの小説も異常な事柄を描いていながら異常さを感じさせない理由は、その説明的な文体にあると考えられる。つまり、吉行は異常なことがらをありのままに描きだすのではなく、それを説明しようとしている。読者は作家から語りかけられているのではなく、駆け出し刑事の犯罪調書を読まされているような気分になるわけだ。

この作品は吉行がまだ30歳代の時の作品であり、その分青臭いところが残っているのかもしれない。だがそれにしても、こういう小説を読まされた後では、次の作品を読む意欲がわいてこない。

というわけで、筆者はこの小説に大いに失望を覚えたところだ。


    

  
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