日本語と日本文化


吉行淳之介の短編小説


筆者は、所謂「第三の新人」の中でも、吉行淳之介の作品は比較的沢山読んだ方だと思うのだが、内容は大方忘れてしまっていた。そこで今回、初期の短編小説をいくつか読んでみたところ、筋は初めて読むような気がしたが、雰囲気の方は何となくなつかしいものを感じさせた。ということは、この作家は独特の雰囲気を身に着けていて、読者は小説の筋書を忘れても、雰囲気だけはどこかにしまって残している、といった不思議な体験をさせられるらしい。

では、その雰囲気とはなにか。なかなか言葉であらわすのは難しいが、一言で言えば、世の中に対して斜に構えている、ということだろうか。それは、世の中に対してのみならず、自分自身に対してもそうなのだ。吉行の小説に出てくる人間たちは皆、人生とか社会とかいったものに、正面から向き合おうとしない。それのみならず、自分自身にも正直でないところがある。それは、ものごとをありのままに受け止めようとして、その重みに耐えられず、つい一歩身を引いてしまう、といった風情のように受け取れる。

今回とりあえず読んだ短編小説は、「驟雨」、「寝台の舟」、「鳥獣虫魚」、「風呂焚く男」の四篇だが、これらはいずれも、上述したような雰囲気を備えている。「驟雨」と「鳥獣虫魚」は男と女との淡い出会いについての話であり、「寝台の舟」は中途半端な同性愛の話であり、「風呂焚く男」はある女から別の女に乗り換えようとして中々スマートに乗り替えられない男をテーマにした話である。どの話でも、人間たちは素直に触れ合うことがない。というよりか、人間的な触れ合いを避けているふうがある。あるいは、触れあおうとしても触れあえないので、触れあうことを避けている、といってもよい。

こんな、社会性を欠き、人間的な触れ合いを感じさせない小説が、なぜ文学として成り立つのか。

村上春樹は、吉行の小説を評して、「吉行さんの文学が良く都会的だといわれるのは、おそらくそのような自我との対決姿勢(非対決姿勢)の中にあるのだろうと僕は思います。逆説的に言えば、自我との回避行為を描くことによって、どのようにそれを回避したかという姿勢を示すことによって、自我というモーメントの存在を、ヨシユキ的に正確に浮かびあがらせていくわけですね」(若い読者のための短編小説案内)といっている。

自我との回避行為というのは、自我を殺すことだろうから、当然対象との距離感もなくなり、したがって、別の人間と自分との境界意識もなくなるということだろう。普通なら、そういう状況は、彼我の区別の消滅という事態を通して、文学する主体の消滅にもつながるはずなのだが、そうではなくかえって逆説的な形で自我を浮かび上がらせる、と村上はいっているわけだ。それがどんな自我なのかは、それぞれの状況によって違ってくる、というわけなのだろうか。

上記案内の中で村上が取り上げている「水の畔」という小説を筆者はまだ読んでいないのだが、村上の文章によれば、結核を患っていることになっている主人公(明らかに吉行の分身)がある少女に思いを寄せながら、結局は何もいわずに終わらせてしまうという、悲恋にも何にもならないお話だということだ。それが文学として読者に訴えて来るのは、村上によれば、主人公の現実に対するデタッチメントの姿勢のおかげだろうという。つまり、吉行のこの作品は、主人公の現実に対するデタッチメントから、逆説的に自我と世界との関わり合いの、ひとつのあり方を剔抉しているのだ、といいたいらしい。いずれにせよ、村上は吉行の文学を「デタッチメント」の文学と位置づけているようだ。そこで、筆者もそんな見地から、上記の諸作品を読み解きたいと思う。

まず総論として、「水の畔」に比べれば、筆者の読んだ短編小説は、いささかデタッチメントの度合いが少ないといえるかもしれない。「驟雨」の主人公は、娼婦とのビジネスライクな関係がいつの間にか本物の恋愛感情に変っていくのを、まるで他人ごとのように語っているのだが、その他人ごとの姿勢の中に、読者はデタッチメントの片鱗を感ずることはあるだろう。だが、実体化していく主人公の恋愛感情はデタッチメントの姿勢を乗り越えていく。感情というものはいつもそうなのだ。つまりここでは、斜に構える人間と感情に押し流されようになっている人間とが、一人の男の中で共存しているわけである。

「寝台の舟」は、同性愛者の男から求愛されて、それに応えられない男の話である。だからこれはデタッチメントとは無縁な話のはずなのだが、男は同性愛者の求愛に応えられない、というところに作者はデタッチメントのアリバイをおいているようだ。同性愛者が求愛のあまりに感情が高ぶる、すると他ならぬ彼のペニスが怒張する。その怒張して勃起したペニスを見ていると、主人公のペニスはますます萎縮してしまうのだ。こういう光景をなんと形容したらいいのか。健全な読者なら迷ってしまうところだろう。少なくとも、デタッチメントといって片付けられないものがある。世の中に対して斜に構えている男が、何故同性愛者の男とベッドを共にする気になるのか、そこの何処にデタッチメントの心情を読み取ることが出来るのか、といった批判は成り立つだろう。

「鳥獣虫魚」は、「その頃、街の風景は、私にとってすべて石膏色であった」という書き出しからして、ある種のデタッチメントを描いた作品だと想像できる。たしかに主人公は、世の中に対して斜に構えている、つまりデタッチメントの姿勢をとっている。ところが、その姿勢が破られることがある、それも外的な力によって。その外的な力というのは、現実の女が放つ色気だ。男はその色気に唆されて我を忘れ、現実に対してコミットするようになる。つまりこの作品はデタッチメントとコミットメントの弁証法的な関係を描いた作品と言えるのだが、その弁証法の媒介の作用を女の色気が果している。そこが吉行らしいところだと言える。吉行淳之介という作家は、とことん男女の色事にこだわった作家なのである。

「風呂焚く男」は、新しい女との関係を築くために、古い女との決別を図る自分勝手な男の話である。古い女はなかなか男との関係を切れずに、いつまでも付きまとっているが、とうとうある日、記念の品を残して去っていく。その記念の品というのが、数十枚もの手作りのパンツなのだ。何故パンツなのかは問題ではない。問題なのは、そのパンツのことを新しい女に気づかれないようにすることだ。そこで男はひそかにこのパンツを処分する決意をする。どうやって。庭で焚火をして燃やすわけにもいかない。だったら、風呂の焚口に突っ込んで焼いたらいいのではないか。この素晴らしいアイディアを思い付いた男は、家のガス風呂を壊して五右衛門風呂に変える。五右衛門風呂なら火を燃やす焚口がついている。そのなかに次々とパンツを放り込めば、新しい女に気づかれることなく、パンツを処分することが出来るだろう。そして実際にその思惑は成功するのだ。

これはもはや、デタッチメントとはいえないかもしれない。デタッチメントではなく、ただの喜劇と言ってもよい。吉行淳之介はデタッチメントを描きながらも喜劇的な精神を忘れない作家であるが、このような純粋に喜劇的な作品も得意だったわけである。


    

  
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