日本語と日本文化


遁走:安岡章太郎と軍隊生活


戦争文学の中でも兵営での日常の軍隊生活に焦点をあてたものとしては、野間宏の「真空地帯」と安岡章太郎の「遁走」が二大傑作ということになっているようだ。しかしこの二つの作品は、同じようなテーマを描いておりながら、その描き方は大分異なっている。野間の方がいわゆる告発調で、軍隊生活の不条理さを客観的な視点から浮かび上がらせようとしているのに対して、安岡の方は、軍隊での生活を、そこに生きている当事者の視点から、淡々と描いている。野間が外部から覗きこんでいるのに対して、安岡は内部から打ち明けている、そんなふうに受け取れる。

「真空地帯」の主人公木谷一等兵には野間自身の面影が投影されているようだが、「遁走」の主人公安木加介二等兵も安岡自身をモデルにしている。安岡は、昭和19年3月に召集されるや直ちに満州北部の孫呉に連れていかれるが、8月に胸部疾患で離脱、配属されていた部隊は南方に転戦してほぼ全滅した。一人残った安岡は入院先を何か所か移転した後、翌年の3月に内地送還され、7月に現役免除となった。安岡はこうした自分自身の体験をもとにして、この小説を書いたわけである。自分の体験をもとにしている点で、他の多くの作品と同じような系統に属すると言える。

小説は、大きく分けて前後二段からなる。前段は、内務班と呼ばれる軍隊の日常生活の場が舞台となっており、後段は病院が舞台となっている。それぞれ舞台は異なるが、そこで生きている日本兵の生きざまには基本的な違いはない。つまり個々の人間としてではなく、戦争遂行単位として、単なる数になってしまった人間たちである。

内務班というのは、軍曹以下の下級の兵士たちの生活単位であり、数十名で構成されていたようである。軍隊の階級秩序がそのまま持ち込まれ、下級兵士は上級兵士に無条件に服従する一方、上級兵士は下級兵士に対してかなり恣意的な制裁を加えることが出来た。そうした制裁こそが、内務班での生活の最大の特徴であるかのように、内務班をモチーフにした文学作品や映画などでは、くりかえしビンタやリンチが描かれている。この作品においても、それは例外ではない。

安木加介も入営早々しょっちゅう殴られるようになる。同じ初年兵の中でも安木は殴られやすくできているのかもしれない。殴られるのをよけるのは無論、その意味について考えることもご法度だ。殴る殴られるという関係は、軍隊の中では無条件に正当なことなのだ。それに理由など必要ない。

「殴られるための正当な理由、そんなものはどこにもあるはずはない。けれども殴られた直後には、どうしたってその理由を考えずにはいられない。考えるという習慣がすこしでも残っている間は犬だって考える。ところが軍隊では"考える"などということで余計な精力を浪費させないために、殴って殴り抜く」というわけなのである。

従って軍隊の中では、個人の自由などというものはどこにも存在しない。ただ一つだけ生きがいといえるものは、食うことと排泄することだ。食うことは、たとえ下級兵士であっても許される。糞を垂れるのも大目に見てもらえる。軍隊の中では、体の外面と精神の内面が接収されて自由にならぬいっぽう、体の中の出来事までは干渉されない。だから、食って糞を垂れる、そこに人間としての最後の生きがいを感じとる。それさえもできないようでは、兵隊としては生きてはいけない、というわけだ。

そんな加介の身の上に重大事件が起こる。銃口蓋が無くなってしまったのだ。支給された物資は大事にしなければならない、なくすなどはもっての他だ。ましてや武器の一部をなくすなどは風上にも置けない、「ここでは誰でも員数を見失うまいと、絶えず必死で気を配っている。小銃、帯剣、弾薬、等々の兵器を始め、軍衣、軍袴、襦袢、袴下、ボタン穴の一つ一つまで、兵隊の身体を取り巻いているものはすべて、一定の数に限って配給されたものであり、その数量はどんなことがあっても保持されなくてはならない。それは軍人の守るべき鉄則であり、最高無比の教義である」というわけで、加介はさんざん締め上げられる。

そうするうちに、あちこちから兵器の部品の紛失事件が明らかになり、個人への配給品の他に機関銃や擲弾筒といった共通兵器までが紛失するようになった。これは一大事である。班長の責任はもとより中隊全体の責任も問われる。というわけで、中隊員全員を夜間戸外に出したうえで、兵営内を徹底的に捜査したり、班長に至っては、便所の糞ダメの中まで捜索する始末だ。結局一人の兵士の仕業だと分かったが、その兵士は逃亡してしまった。逃亡といっても、北満の荒野をどこまで逃れても、身を隠す場所などあるはずもない。

逃亡兵の追及から兵士たちが戻って来ると、南方への転属が知らされる。それは戦死する可能性が迫ってきたことを意味したようで、兵隊たちには家族への遺書を書くよう命令が出される。加介は何とか次のように書いた。

御両親様
加介はいよいよ名誉の戦死をとげることとなりました、どうかおよろこびください
天皇陛下 皇后陛下 万歳
         安木加介

こう書いた紙を封筒に入れて班長のもとに差し出した加介は、いたく後悔するのだったが、後悔しても始まらない。こう書くよりほかにやりようはないのだ。

だが、部隊が転出するその時になって、加介は激しい下痢に襲われ、便所の中に飛び込む。そしてそこで長い時間踏ん張っているうちに意識を失った。

実は加介は肺病にかかって高い熱を出したのだった。通常なら、加介の行動は罪に当たるはずだったが、病気を理由に罪を許され、病院で治療を受けるようになる。

こうして、後半では病院での生活が描かれる。加介は、内務班での息苦しい生活から解放されたことを喜んだが、それはぬか喜びに過ぎなかった。病室での生活も、内務班ほどではないが、軍隊生活の一部だったのであり、基本的には内務班と同じような人間関係に取り囲まれていたのである。

加介はいくつかの病院を転々とするが、その中に看護婦のいない病院があった。そういうところでは衛生兵が看護婦のやるべき仕事をするのだった。「看護婦のいないこの病院では衛生兵が絶対の権力を持っていた。しかも、それは看護婦の持っていた権力よりも一層強力なのであった。不思議なことに、他の病院では女性がやっていることを男性である衛生兵がやっていると、元来女性だけがもっているはずの権力も彼らは兼ね備えてしまうのである。衛生兵たちの猜疑心が強く嫉妬深い点が女性的だとしたら、押し付けられるだけの責任をみんな患者に押し付けてしまうことで一層女性的な特質をあらわしていた」

こんなわけで、病院においても非人間的な生活が延々と続く。そうした生活にしかし、加介は段々と馴れていって、不満も疑問も感じなくなるようになる。なぜだろう、と加介は自問する。その「本当の原因は、もっと別のところにありそうだ。いま彼の心をひたしているのは、いいしれぬ退屈さだった。内地へついたからといって、そこに待っているのはやっぱり、室長であり、当番であり、衛生兵であることにかわりなかろう。そのかわりに、北満に送り返されようと、ここへ残されようと、そこに自分なりの生き方をして、生きられるだけは生きていけるだろう。仮に娑婆に戻されたところで、そこに待っているのは・・・」

こう加介はつぶやくのだが、それはとりもなおさず、軍隊の期待する人間像に、彼が一歩近づいたということなのだろう。


    

  
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