日本語と日本文化


安岡章太郎の短編小説


安岡章太郎の初期の短編小説をいくつか読んでみた。これらは過去に一度読んだことがあるはずなのだが、いずれも初めて読んだような印象を受けた。最初の読書体験の記憶がほとんど残っていないのだ。同じような時期に読んだ大江健三郎の短編小説、たとえば「死者の奢り」とか「飼育」といった作品についてはかなり詳細に覚えているのに、安岡の短編についてはきれいさっぱり忘れている。これはどういうわけなのだろうか。まずそんなことを考えた。

話の筋が平板でメリハリがない。いいかえれば物語性に欠けている。人をあっと言わせるようなプロットもなければ、記憶の底にしみこむよう感動もない。だから、小説という作り物を読んだという体験に結びつかなかったのではないか。新聞の三面記事を読み流して、そのまま忘れてしまうといった、軽い読み方だったのではないか。まずそんなふうに考えてみた。

第三の新人と呼ばれる作家たちは、私小説的な色彩が強くて、物語性に乏しいと言われるが、安岡はそうした傾向が最も強いように思われる。今回読んだ作品(ガラスの靴、愛玩、陰気な愉しみ、悪い仲間)は、いずれも安岡自身の私生活に根差した話のようだし、語られていることがらも、ごくごく個人的な内向きのことばかりだ。それも、語り手によって囁くように語られるので、聞かされるものは、陰気な気持ちでそれを受け取るほかはない。どうもそんなふうに感じられる。これは壮大な物語とか、心揺さぶられる話とか言ったものとは無縁な、ただの饒舌なのではないか。

その辺は、安岡自身も自覚していたようだ。安岡は自分の創作態度を、「日常生活の中で出会った些細なエピソードを寄せ集めてイメージを作った」といっているが、これはとりもなおさず、私小説的な創作態度と通じているものだ。

だが安岡には、ただの私小説作家たちとは違うところもあるようだ。私小説作家は、文字どおり自分の私生活を飾らずに描き出すわけであるが、安岡の場合には、そこに幾分か装飾のプロセスが介在する。つまり安岡の小説は、日常のエピソードをそのままだらだらと書き連ねるのではなく、色々なエピソードを自在につめこみ、しかもそれらの組み合わせ方に工夫をこらすところがある。これを安岡は、「寄せ集めたもの(エピソード)を目に見えないリズムに乗せて統一のあるものにする」と言っているのだが、この統一のプロセスから、私小説には見られない独特の味わいが生まれてくる、といえるのではないか。

「ガラスの靴」は安岡の処女作である。いろんな意味で安岡らしさがつまっていて、安岡作品の原形のようなものだ、と村上春樹も「若い読者のための短編小説案内」の中で言っている。小説の素材は安岡自身の体験の中から集めている。安岡は戦後の一時期アメリカ軍の接収住宅のメンテのようなアルバイトをしたことがあるそうなのだが、この小説はそうした接収住宅を舞台にしているのだ。この接収住宅の中で、そこの女中と語り手との不思議な共同生活が繰り広げられる。接収住宅の主人であるアメリカ兵が所要で不在の間、留守番を任された女中の若い女と、主人公の語り手とが仲良くなってしまうのだ。

二人は仲良くはなるが、性的に交わるでもない。ただ一緒にいるだけで幸せなのだ。ところが、接収住宅の主人が帰ってきて、もういままでどおりのことはできなくなってからはじめて、語り手である主人公はその女の子と性的に交わりたいと思う。しかし女の子の方ではそういう望みはもっていない。ただなんとなく一緒に居続けたいだけのようなのだ。男女の間のそんな関係が長続きするわけもないから、物語は当然いつまでも続くわけにもいかず、かといって劇的に断絶するというわけでもなく、なんとなく消え入るようにして静かに終わる。なんとなくつかみどころのない小説なのである。

「愛玩」は、安岡の両親を素材にした作品である。安岡の父親は軍の獣医であったが、敗戦後仕事の意欲を失い、家でブラブラしていた。そんな父親の無気力な様子を描いたのがこの作品なのである。その父親はある日、どうした訳か兎を飼いはじめる。ひとつがいのアンゴラ兎である。どうやら趣味と実益を兼ねたものらしい。母親の方は夫の道楽に眉をしかめるわけでもなく、かえって兎たちに母性本能を掻き立てられる始末である。安岡の母親は母性本能が旺盛だったらしく、安岡はその母性本能に大分損なわれもしたようなのである。アンゴラ兎は8匹も子ウサギを生んだりして、どんどん増える様子を見せるが、どういうわけか、母親の一存で肉屋に売り飛ばされてしまう。何故肉屋なのか、それはわからない。わからないところが小説の面白さだといわんばかりに。

「陰気な愉しみ」は、安岡自身の病気体験を素材にした作品である。安岡は従軍中結核にかかり、それがもとで脊椎カリエスになったりした。そんな病気体験を小説にしたわけである。小説の中の主人公は、役所から戦病手当を給付されており、毎月一度横浜の役所にそれを受け取りに行く。これはある意味で当然の権利であり、少なくとも人様に恥じるようなことではないのだが、何故か主人公は、この手当てを貰うことにコンプレックスを感じている。役所の受付窓口に入る役人たちの横柄な態度がそのコンプレックスを掻き立てているという事情もある。この主人公は大変気が小さく、人から馬鹿にされても、憤慨するかわりにいじけてしまうのである。

そんな主人公がある日、いつもより多くの手当を受け取る。そんなことはこれまで一度もなかったことだ。そこで俄に自由に使える金を手にした主人公は、それでささやかな贅沢をしようと思う。しかしそれができない。高級レストランは自分には場違いな場所にみえるし、肉屋の軒先にぶら下がっているソーセージも自分には相応しくない食べ物のように思える。結局、桜木町駅の近くで、一人の老婆に靴を磨いてもらうことで、ささやかな贅沢をあじわうのである。

「悪い仲間」は自分の交友関係を素材にしたものである。安岡は中学校を卒業した後3年間浪人生活を送っているが、その間に古山高麗雄とつきあったりしている。この小説はその古山との交友関係を中心にして、落ちこぼれ学生たちの悪業を描いたものだが、悪行と言ってもたかが知れている。せいぜい食い逃げをする程度のことである。小説の終わりに近づくと、主人公は自分の前途が心配になり、友達を裏切って自分だけが進学を目指すようになる。その辺の後ろめたい感情が描かれるわけだが、これは安岡が現実に味わった感情だろうと思われる。安岡はこの場面でも、母親の愛に圧倒されて、友人を裏切ったのである。

こんなわけで、安岡の初期の短編小説はどれも、自分自身の体験に素材をとっている。その意味では私小説の系譜にあるともいえるのだが、先程もいったように、自分の私生活を単純に描いているわけでもない。小説の枠組は自分の過去の体験をもとに作り上げるいっぽう、枠に嵌め込む個々のエピソードは、かなり自在に選んでいる。しかしてエピソードの組み合わせも自在だ。その自由自在なところから、普通の私小説とは異なった、独特の雰囲気が醸し出される。どうもそんなふうにいえるようだ。


    

  
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