日本語と日本文化


庄野潤三の短編小説:「静物」ほか


今まで一度も読んだことのなかった庄野潤三の作品を読んでみる気になったのは、村上春樹の影響である。あまり日本の作家を読まないという村上が,ある程度読んでいるというのが所謂第三の新人と呼ばれる作家たちで、その中でも庄野潤三の作品は結構高く評価している。村上は、第三の新人たちに共通する傾向を、私小説の枠組の中に非私小説的な内容を盛り込むことだといっているのだが、そんなやり方をもっとも意識的に遂行しているのが庄野潤三だと位置づけているのである。

村上は「若い人たちのための短編小説案内」のなかで、庄野の作品としては「静物」を取り上げ、これを非常に高く評価している。これを書いただけでも、文学史に残る作家であり続けたでしょう、とまで言っている。筆者にはいまひとつぴんと来ないが、要するに私小説と言う日本文学に特有の枠組を利用しながら、そこに全く非私小説的な内容を盛り込み、それが見事な効果を生み出しているということらしいのだ。スタイルは私小説風でありながら、中身はシュールレアリスティックだというわけである。

これは組み合わせのミスマッチがもたらす意外な効果だといえるかもしれない。人間の創造力などというものは、元来が荒唐無稽なものではなく、無から有を生み出すようにはなかなかいかない。既にあるものを、色々に組み合わせることによって、第三の新しいものを拵えるというのが殆どの場合であって、その組み合わせの中から、人の意表をつくような意外なものが生まれてくる。庄野潤三の作品などは、そうしたタイプのものであり、そのなかでも「静物」という作品は、それが最も効果的に達成された作品なのだというのだろう。

「静物」は、なんという特徴もないありふれた家族の日常を淡々と描いたものである。父親がいて、その妻がいて、二人の間には三人の子供がいる。初夏の或る日曜日に、男の子にねだられた父親が子どもたちを釣堀に連れて行くところから始まり、いろいろな日常生活の描写を経て、最期にはミノムシが殻を作る頃、つまり冬の始まりの所で終わっている。だからほぼ半年の間の出来事が、あまり時間の流れを感じさせないように、淡々と語られるといったものだ。

小説の中で唯一事件らしいことは、妻の自殺未遂に言及している部分だが、それも過去の出来事として、ひっそりと仄めかされるだけである。こんなわけだから、この小説には物語の展開と言うものがない。日常生活がだらだらと描写されるだけなのである。そこのところが私小説的と言われる所以なのだが、描写されている日常の出来事が、日常的でありながら、非日常的にも思われてくる。つまり、自分ならこんな風には生きないだろうな、と読者に感じさせるような生き方を、この小説の登場人物たちはしているということである。

「静物」と比べると、「プールサイド小景」のほうは、もう少し物語性を感じさせる。主人公の男は会社の金を使い込んで首になったばかりなのだが、そのことを子どもたちにいえないで、お父さんは10日間の休暇をもらったと嘘をつく。何も知らない子どもたちは大喜びで、この10日間の休暇を有意義に過ごしたいと思う。そんな子どもたちの期待に応えようと、父親は子どもたちを学校のプールに泳がせに連れて行く。そんな亭主を見た妻は、情けない男だとがっかりするが、かといって亭主を責めるわけでもない。運命を運命として受け入れ、それに流されるだけなのである。

所期の作品「愛撫」は、物語性がもっと強く出ていて、しかも一人称の語り口が独特の効果を醸し出していた。語り手の女性は、自分の目線から亭主を批評したり、自分の経験を反省したりするのだが、その経験というのが、実にユニークなのだ。少女時代に同性の友達から受けた愛撫や、成人後に習ったバイオリンの教師との性的接触といったことがらを、実にねちねちと語り続ける。それだけではない、その話を聞かされた夫が、なにかと問いただしてくる。それがあたかも妻の不倫を追求するかのようなので、語り手の私は不本意な気になるが、かといってそんな夫に反発を覚えるわけでもない。自分の半生やら思い出やら現実の夫の反応やらが、まるで他人事のように語られているのである。

「プールサイド小景」における物語性や「愛撫」における肉感性といったものは、いかにも庄野潤三らしいユニークさを現していたので、彼がこういう方向を突き詰めていったら、ものすごい小説家になるのではないかとの期待が生まれ、自分もそのように期待した一人だったが、何故かそういう方向にはいかず、「静物」にいってしまった、と村上はいう。「いっちゃった」とは、多少の失望を匂わせる言葉だが、要するに、物語性や感受性と言ったものが深化されなかった。だからといって、作品の価値が劣るということではない。「静物」は、先ほども言ったように、庄野潤三の最高傑作といってもよいのだから、というわけである。

もういちど「静物」に戻ると、この小説のなかで中折帽のエピソードが出てくる。ある日妻が買ってくれたのだが、妻が何故そうしたのか、亭主には心当たりがない。といって妻に改めて聞くわけでもない。ただ有難く被っているのだが、そのうち映画を見に行った時に、うっかりして座席に忘れてくる。すぐ気付いたので、取り戻そうとすればできないでもなかったが、亭主は何故かそうせずに、そのまま捨てるようにして、映画館を出てしまう。

これだけの話なのだが、それが実に丁寧に書かれている。何故そんなに帽子にこだわるのか、訳が分からないほどである。だが、そんなにこだわる割には、あっさりと帽子を捨ててしまったりして、脈絡が感じられない。その脈絡のなさが、この小説の一つの大事な雰囲気みたいになっている。

そんなところが、この小説に独特の魅力を付与しているのではないか。


    

  
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