日本語と日本文化


小島信夫の短編小説


村上春樹が「若い人たちのための短編小説案内」のなかで、文學史上第三の新人といわれる作家たちの作品を取り上げ、これらが日本の文学史の中で独自の存在感を持つばかりか、前後の時代の作家たちに比べても、いまだによく読まれているということを指摘していたので、筆者もこれらの作家たちが気になるようになってしまった。というのも、筆者はこれらの作家たちを未だ熟読したことがないので、なにか損をしたような気になったからなのだった。

まず、小島信夫に挑戦してみた。とりあえず読んだのは初期の短編小説、「汽車の中で」、「小銃」、「馬」、「アメリカン・スクール」の四篇である。小島は「アメリカン・スクール」で芥川賞をとったわけだから、これらの作品は助走から開花までの、いわば習作に当たる作品群である。その割にはよく出来ているというのが、読んでの実感だった。習作にしては、作家の持ち味がよく盛られている。要するに完成度が高いのである。

まず、文体。これがなかなかユニークだ。洒脱な文体で結構重いテーマを描いている。こういうタイプの文体は、小島以前には見当たらないのではないか。筆者は文学の一マニアに過ぎないので、文学史的な知識はないに等しいのだが、それでもこうした文体の目新しさ、独特さというのは、ピンとわかる。村上が小島に親近感を覚えたのは、ひとつにはこうした文体に自分との親和性を感じたからではないか。

次いで、テーマ。これがまた独特なのだ。四つの作品とも、ある意味で異常な事態、異常な状況を描いている。だが、どれもありえないほど異常なことではない。場合によっては誰でも陥る可能性がある状況だ。そうした意味では、日常性の中にポッとわいた、スポット的な異常性といってもよい。その異常性を、あくまでも日常的な視点から描いている、といったところか。つまり語り手は、自分はあくまでも日常性の中にいると思いつつも、自分が今陥っている状況はどうもいつもの日常性とは違う。どうもおかしい、自分と状況とのあいだに変なずれがある。それがどんなずれなのか、語り手は最後まで自覚できない。自覚できないうちに、状況そのものが消え去ってしまうか、自分が健全な人間として生きるのをやめてしまうからだ。

「汽車の中で」は終戦直後の交通機関の混乱ぶりを描いたものだ。仕事で妻と共に東海道方面に出張した男が、東海道線に乗って東京へ戻って来る。汽車の中は人で溢れかえっていて、主人公たちは座席に腰かけるどころか、車両の中に入ることもできず、デッキにぶら下がった状態だ。いまでは考えられないことだが、終戦直後にはこうした混雑は珍しくはなく、列車から大勢の人々がぶら下がっている光景などは、記録映画でもよく見られたものだ。そういう状況は、はたから見ている分には、珍しい出し物のようにやり過ごすことができるが、実際にそうした状況にはまり込んでしまった人にとっては、やり過ごすことのできない苦痛となる。この作品は、そうしたやりきれない状況に、図らずも陥ってしまった人間たちの、苦痛を描いたものなのである。それ故、日常性の中にポッとあいた、スポット的な非日常性を描いた作品ということができるわけだ。

この作品を読んでいると、読者は次第次第に語り手の気持ちに感情移入するようになる。自分だってこんな状況に陥らないという保証はない。事情は多少異なっても、日常性の中にぽかっとあいた罠にはまるということは、可能性として十分感じとることが出来る。だから語り手の苦痛は、自分の苦痛に転化する可能性がある。可能性があるがために、読み手である自分は、語り手に感情移入せざるをえなくなってしまうのだ。

「小銃」は徴兵された若い男が、派兵先の中国で女を射殺するという話だ。その男はそれが原因で気が狂ってしまうのだが、何故彼が狂わずにはいられなかったか、それを考えさせる作品だ。小島自身も徴兵体験があるように、兵隊になって戦地に送られることも、そこで戦闘行為をして相手国の国民を殺すことも、戦時中に生きていた人々にとっては、日常性としてありうることだった。しかし、ありうるということと、実際にあったということの間には、無限の距離がある。ありうるかといって、あらねばならぬ、というものではないし、可能性は必ずしも現実性に転化するとは限らぬからだ。

「馬」は、村上が上述の作品論の中で取り上げた作品だ。ある日突然、妻が家の普請を始める。語り手はそれをいぶかりながら見守っているのだが、そのうちにその家は馬を住まわせることを主な目的にしているのだということを知って、語り手は愕然とする。それかあらぬか、自分に対する妻の態度が不自然だ。大工の棟梁に色目を使っているようにもみえる。そんなこんなで、語り手は次第に混乱して来る。混乱の挙句、妻と馬とは恋人同士ではないかとの妄想に囚われるようになる。そうなっては精神病院の世話にならぬわけにはいかない。実際語り手の主人公は、自ら進んで精神病院に籠ってしまうのである。

この作品を村上は様々な視点から解釈し、これは基本的には失われた愛を取り戻すプロセスを描いたのだと結論めいたことをいっていたが、筆者は、これは前の二作との関連で、やはり、日常性の中にぽかっとあいた非日常性をめぐる物語ではないかと解釈したくなる。その非日常性は、前の作品ではあくまでも日常性との連続においてあったが、この作品では日常性と非日常性とは断絶している。ここに展開されているのはある意味、カフカ的な不条理の世界に近い。

「アメリカン・スクール」は、見方によってはとことん日常的な出来事を描いたものである。英語の教師たち30人ばかりが、自分たちの英語教育の参考にしようと、アメリカン・スクールの授業を参観する。どこにでもありそうな、ごく日常的な光景を描いているだけなのだが、なぜかそこに、非日常的なものを感じてしまう。そのズレの感覚がこの作品にもあって、それがこの作品を前の三作とつながらせているのだと思う。

この作品における非日常性とは何か。それは当時(敗戦直後)の日本人がアメリカという国について抱いていたコンプレックスなのだということができる。この作品は、日本人のアメリカ人に対するコンプレックスを徹底的に描いたものなのである。アメリカ人は、戦争で自分たちを破った限りでは自分たちよりも強くて文明的な人種だ。しかし精神的な面では我々日本人がアメリカ人に劣っているということにはならない。我々日本人の方が、一人一人の人間としては、はるかに上等なのだ。そういう、あまり根拠のはっきりしない漠然とした思い、其れをコンプレックスと言い換えることが出来るわけだが、そのコンプレックスのおかげで、人間がどんなに滑稽な行動をとるようになるのか、そのちぐはぐさをえげつなく描き出したのが、この「アメリカン・スクール」だということができる。

こんな訳で、小島信夫の初期の作品群は、日常性と非日常性のこんがらがった縺れ合いを丁寧に描き出したものということができるのではないか。


    

  
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