日本語と日本文化


谷崎潤一郎の疎開日記(その二)


二つ目の着目点である戦時下の谷崎の創作活動と言う点では、この日記が触れているのはもっぱら「細雪」である。この小説は前年(昭和18年)の1月から3月にかけて雑誌に連載しはじめたところを、「時局に相応しくない」という理由で出版を差し止められていたという経緯があった。それ故、この日記を書いていた時点では公開の見込みがなかったわけであるが、谷崎は自家判にして親しい仲間に配るくらいなら大丈夫だろうと思って、稿を書き続け、昭和19年の7月に上巻を完成して、自家判30部を印刷させた。しかしそれについても当局からなにかと介入があって、谷崎は危うい思いをさせられた。その辺の事情はこの日記では触れていないが、後に回想記(細雪回顧)の中で詳しく触れている。

上巻刊行の時点で、中巻のほうも大分進捗しており、谷崎は引き続き執筆にいそしむ。12月13日に空襲をうけた際には、家族が防空壕に非難するなかで一人部屋に残って原稿を書き続けたほどの身の入れようである。その甲斐あって12月20日には、「中巻まさに完結せんとす」までに至った。そして翌年の7月には原稿のコピーを命じている。他日のために万全を期しているわけである。

こうしたところを見せられると、谷崎の作家魂のようなものを感じさせられる。当面は発表の見通しが立たないにしても、やはり書かずにはいられない。それに、こんな異常な事態は永遠に続くわけのものでもあるまい、いつかは正常な事態に立ち戻って発表の機会がやってくるかもしれない。ひとりの無力な作家としては、その可能性にかけて執筆するほかはない。そんな覚悟が伝わってくるところである。

三つ目の交友関係と言う点については、谷崎が実に広い交友関係の中で暮らしていることに括目させられる。戦争が押し迫っても、谷崎はこの広い交友関係を伝手にして様々なところを歩き回っているし、大勢いる家族親戚とも固く結束している。そのために疎開生活も惨憺たるものにならずに済んだ。人間と言う者はやはり、他の人間たちとどのくらい豊かな係わりをもてるか、とくに逆境の時期においては、そのことが切実に思えてくる。その点、谷崎は幸運な人間であったと言えよう。

その谷崎の戦時下の交友関係でもっとも筆者の目を引いたのは荷風散人との係わり方だった。荷風のほうは谷崎とは違ってあまり広い交友はない。ほとんど身一つといった孤独な状態で、戦時下の暗い日々を過ごし、あまつさえ東京大空襲に見舞われて何もかもを失い、命からがら安全な場所を求めて放浪する羽目になる。そんな荷風が藁をもすがる思いで頼った人の一人がこの谷崎だったわけである。

この日記の中では、谷崎は昭和十九年三月四日に麻布の偏奇館に荷風を訪ねている。この日谷崎は、娘のあゆ子に合いに渋谷に出てきたのだが、そのついでに荷風を訪ねることにしたのだった。その事情を谷崎は次のように記す。

「抑も本日永井氏を訪ねたるは、(中略)まだ一度も訪ねたることなき偏奇館を機会あらば訪問せんと思ひつつ、時局のためや、冬は寒くて外出の元気なかりしためやらで延引今日に及びたるなり・・・今日を逸すれば又いつの日に上京し得るや不明なるを以て、強いて本日来訪のことを決心したるなり」

谷崎の訪問を受けた荷風散人は折から台所に腰かけて一人食事をしている最中だった。しかしこの時点では世帯やつれはしていない。「糸織か八端らしき縞物を着角帯を締めたる風情、若かりし頃の俤あり、さうしてゐると荷風氏は実に若く、嘗て代地に住み茶や歌沢の稽古に通ひし頃と余り違はざる感じなり」といった印象である。

二人が交わした会話は、荷風の全集発行に関するものだったようだ。というのも、荷風は嘗て自分の全集発行にあたっては、谷崎の協力を仰いていた経緯があるらしいのである。その辺の事情を、当日の荷風の日記が示唆している。

「三月初四、晴。正午谷崎君来り訪はる。其女の嫁して渋谷に住めるを空襲の危険あれば熱海の寓居に連れ行かんとする途次なりといふ。余昨冬上野鶯渓の酒楼に相見し時余が全集及び遺稿の始末につき同氏に依頼せしことあり。この事につき種々細目にわたりて問はるるところあり」

谷崎が訪ねたのは、主に荷風の日記「断腸亭日乗」のことだったようだ。その辺のことは日記の次のような記事から伺われる。

「予は全集編纂のことにつき種々質問す、荷風氏の未発表のものにて最も貴重なるは大正年間以来の日記なり、日記は榛原製雁皮の罫引に実に丁寧にそのまま版下になるやうに記しあり、美しく製本して五冊づつ秩入りになりをれり」

この日別れた二人が再開するのは翌年の八月十三日である。あたかも終戦の日の二日前のこと、二人は谷崎の疎開先岡山県勝山で出会い、述べ三日共に過ごしたあと、終戦の当日の午前に別れた。それぞれが終戦を知ったのは、その日の午後であった。

この再会に至るまでの間、荷風は東京大空襲で偏奇館を焼かれ、身一つで友人たちを頼り、放浪の果てに岡山にたどりついた。谷崎の方は荷風程ひどい目にはあわなかったが、やはり難を避けて関西以西に疎開先を求め、岡山県の津山、次いで勝山に疎開した。谷崎は荷風が自分の近くに疎開していることを知って、六月二十六日の日記に次のように記している。「岡山合同支社長来訪永井荷風氏の伝言を伝ふ、氏は津山と岡山間の某所に疎開の目的を以て西下、目下岡山ホテルに滞在中の由、まことに以外の吉報といふべし」

その荷風は岡山ホテル滞在中の六月二十八日にまたもや空襲に会う。その折の断腸亭日記の記述には鬼気迫るものがある。ここでは、現行日乗本文からではなく、戦後発表した「罹災日録」から、その部分を引用する。

「果せるかな、この夜二時頃岡山の市街は警戒警報の出るを待たずして猛火に包れたり。余は夢裏急雨の濯ぎ来るが如き怪音に驚き覚むるに、中庭の明るさ既に昼の如く、叫声足音街路に起るを聞く。倉皇として洋服を着し枕元に用意したる行李と風呂敷包とを振分にして表梯子を駈け下りるより早く靴を履き、出入り口の戸を排して出づ・・・焼夷弾前方に落ち農家二三件忽ち火焔となり牛馬の走り出でて水中に陥るものあり。余は死を覚悟し路傍の樹下に蹲踞して徐に四方の火を観望す」

こうして身に危険が迫るのを感じた荷風は、勝山に谷崎が来ているのを知って、訪ねることにした。できれば谷崎を頼って、勝山に疎開したいと考えたのである。

空襲で焼け出され、着の身着のままになった荷風は、八月十三日に谷崎に会いにきた。その時の荷風の様子を谷崎は次のように書いている。

「午後一時頃荷風先生見ゆ。今朝9時頃の汽車にて新見廻りにて来れるとの事なり。カバンと風呂敷包とを振分にして担ぎ外に予が先日送りたる籠を提げ、醤油色の手拭を持ち背広にカラなしのワイシャツを着、赤革の半靴を履きたり。焼け出されてこれが全財産との事なり。然れども思ったほど窶れても居られず、中々元気なり」

谷崎は荷風をできる限り歓待した。荷風の方でもそれに感謝している様子が、断腸亭日記の記述から伺われる。今の荷風にとっては宿屋で出されたありふれた朝飯でも、「今の世にては八百善の料理を食するが如き心地」になるのである。

谷崎は荷風から疎開への援助を申し出られて、最初はなんだかんだと理屈をつけて断っていたが、結局応じることにする。しかし今度は荷風の方で遠慮しだして、八月十五日の午前中に岡山へ引き上げてしまうのである。

終戦の報に接した二人の反応を、ここで並べて紹介しておく。まず谷崎。

<荷風氏は十一時二十六分にて岡山へ帰る。予は明さんと駅まで見送りに行き帰宅したるところに十二時天皇陛下放送あらせらるとの噂を聞き、ラヂオをきくために向う側の家に走り行く。十二時少し前までありたる空襲の情報止み、時報の後に陛下の玉音をきき奉る。然しラヂオ不明瞭にてお言葉を聞き取れず、ついで鈴木首相の奉答ありたるもこれも聞き取れず、ただ米英より無条件降伏の提議ありたることのみほぼ聞き取り得、予は帰宅し二階にて荷風氏の「ひとりごと」の原稿を読みゐたるに家人来り今の放送は日本が無条件降伏を受諾したるにて陛下がその旨を国民に告げ玉へるものらし。皆半信半疑なりしが三時の放送にてそのこと明瞭になる。町の人々は当家の女将を始め皆興奮す。家人も三時のラヂオを聞きて涙滂沱たり・・・>

次いで荷風。

<午前十一時二十分発の車に乗る・・・新見駅にて乗換をなし、出発の際谷崎夫人の贈られし弁当を食す、白米のむすびに昆布佃煮及牛肉を添へたり、欣喜措く能はず、食後うとうとと居眠りする中山間の小駅幾箇所を過ぎ、早くも西総社また倉敷の停留所をも後にしたり、農家の庭に夾竹桃の花咲き稲田の間に蓮華の開くを見る、午後二時過岡山の駅に安着す、焼跡の町の水道にて顔を洗ひ汗を拭ひ、休み休み三門の寓舎に帰る。S君夫婦、今日正午ラヂオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと言ふ、恰も好し、日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ>

谷崎は細君の感極まって涙滂沱たりしを記し、荷風は恰も好しと記す。その落差思うべきである。


    

  
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