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谷崎潤一郎の疎開日記(その一)


谷崎潤一郎には断続的に日記をつける習慣があったが、そのうち昭和十九年一月一日から同二十年八月十五日までの分を、「疎開日記」と題して一篇にまとめている。戦争末期から終戦当日までの約一年半をカバーしている。この短い期間に谷崎は、神戸市の魚崎にあった本宅から別荘のある熱海へ、そして岡山県の津山、勝山と、疎開先を転々としている。それはまさに、B29の轟音に急き立てられながらの、より一層安全な場所を求めての逃避行であったわけだ。

この日記は戦後雑誌等に発表されるにあたって、恐らく大幅に手を入れたのだと思われる。読物として緊張感を持続させようとの配慮からだろう、些細な記事を省き、校正を重ねたフシが伺われる。それ故、出来事の展開がドラマチックに浮かびあがってくるようになっている。読んでいて面白いのである。その面白さは、荷風の断腸亭日常とはまた別の趣のものである。

この日記からは、色々なことが伝わってくるが、筆者が特に関心を惹かれたのは次の三つである。一つは、戦争に対する谷崎の視線のようなもの、一つは、戦時下における谷崎の創作への姿勢、そして谷崎の交友関係、特に荷風とのかかわりである。

まず、戦争への谷崎の視線。荷風と違って谷崎は、日記の中で戦争を表立って批判したり、無能な政治指導者たちを罵倒したりはしていない。かといって肯定したり、まして賛美したりもしていない。一市民として、戦争というものと、それが自分自身に及ぼす影響といったものを、淡々と受け止める、そんな姿勢が伝わってくる。谷崎にとって戦争とは、大義とか何だとか大袈裟なことではなく、自分と自分の家族にとってどんな危険があるのかといった、実際的な関心の対象たるに過ぎないようである。彼にとっては、戦争とは身に迫る空襲の脅威であり、生活の不便なのであった。

日記の始めのほうでは、戦争はまだ差し迫った脅威とは感じられていない。それでも、いろいろな噂を聞くと、より安全な場所へ疎開したほうがよいのだろうというくらいは感じている。それで谷崎は、本宅のある魚崎から別荘のある熱海に生活の拠点を移そうという気になる。魚崎は阪神工業地帯の近くで、米軍の攻撃の的になりやすい。それに比べれば熱海ははるかに安全だという判断からだ。こうして谷崎一家は昭和十九年四月に熱海に拠点を移すのだが、そこもいつまでも安全ではいられない。

七月十四日には、「東京都防衛本部の名にて空襲切迫」と書き、翌日には「サイパン島陥るとの大本営発表あり」と書き込む。サイパン島の陥落は、米軍による本土空襲が現実味を帯びてきたことを、谷崎なりに受け取っているのである。

八月十六日には、長崎、小倉、米子の空襲にふれて、「小倉は・・・ひどくやられ人心殺気立ち居り誰も防空壕などに入らぬ由」と書いている。本土空襲がいよいよ始まったことに敏感になっている部分である。

十一月二十四日には、東京北多摩の中島飛行機の工場が、百以上の米機によって空爆されているが、その当日に、谷崎は次のように書いている。「程なく錦ヶ浦の上空に飛行機雲現れ頭上に爆音きこゆ、家人等壕に入らんとしてあれ~と空を仰いでゐるので予も出てみる、一機東京を目指して飛ぶ、高く~鰯雲の中にあり、爆音によりて敵機なること判明、日本機のガラ~云ふ音と異なりて、プルン~と云ふ如き振動音を伴ひたる柔かき音なり、後部より吐くガスが飛行機雲となりて中天に鮮やかなる尾を曳く、機体もスッキリしてゐて美しきこと云はん方なし」

ここで谷崎は心の自由を失っていなかったことを敢えて言いたかったのだろうか。高みの見物を装っている。そこには米機に対する憎しみは出ていない。しかし、高みの見物とは言っていられないようなことが続いて起こる。少年時代を過ごした故郷の町と言うべき日本橋界隈が、十一月三十日の空襲で焼かれてしまうのだ。そのことを知った谷崎は、十二月二日の記事で次のように書いている。「当夜東京に侵入せるは僅か十機内外が二回にわたりて来りしのみにて風もなく雨の夜なりしにも拘らず此の被害にては今後本格的な空襲来らば帝都は忽ち焼野原とならんとの説盛なりと」

それでも谷崎は平静を装っている。十二月十三日には次のような記事が見える。「今晩も空襲あり・・・熱海上空も夥しく飛来す、家族は皆壕に入りたれども予は細雪を執筆す」

つまり米機の空襲が自分の足元に迫っていることを確認しながら、それでも自分は平静さを失わないのだと、この記事は語っているようにも受け取れる。

翌年三月十日の東京大空襲は谷崎にとっても大きなショックだったようだ。当日のうちに噂を聞いた谷崎は、「昨夜の敵機は百三十機にして今朝八時半まで火災続き下町大半烏有に帰すと」と書き、翌十一日には、「日本橋神田下谷本所深川浅草は殆ど一軒も家なく一望の焼け野原にて死人何万なるを知らず」と書く。そして友人の安否や中央公論も気忙しいので早速上京したいと書いている。谷崎はこれに先立って、細雪中間の原稿を中央公論社に託していたのである。

三月十二日、谷崎は夫人と共に東京を訪れる。和服にモンペ姿、それに靴を履くといったいでたちだった。その日は渋谷の知人宅に一泊し、翌日都心に出てみると、想像以上の惨状、ただ「尾張町四角(銀座四丁目交差点)にて焼け跡に歌舞伎座のたっているのを望みえた」。そして午後二時頃、松子夫人の姉一家と再会を果たす。「家人、姉ちゃんと云ひたるまま姉妹万感迫りて言語出でず、夜も貰ひ泣きし涙を隠す能はず」

五月二日にはムッソリーニが、五月三日にはヒトラーが死んだことを記し、五月五日には銀行預金をすべて引出し、いよいよ関西以西へ疎開することにする。

ひとまず魚崎の家に骨を休めた谷崎一家は、五月十一日に空襲の洗礼を受ける。その折の様子を谷崎は次のように書いている。「午前九時頃警戒警報ついで空襲警報となる。紀州南部に集結せるB29の編隊北上して魚崎上空を通過。高射砲の音しきりなるを以て皆々壕に入る・・・魚崎小学校に負傷者続々運びこまれつつある由聞き予と家人と行きてみる。三人ばかり担架で運ばれ行くを見る・・・先刻壕内にて想像したるよりは遥かに身近に危険が迫ってゐたことを知り今更恐怖す」

夫人の妹の夫が津山藩主の末裔にあたることもあり、谷崎はその手づるを期待して、まず岡山県津山に疎開することにした。しかしその津山には二カ月弱いただけで、七月初め谷崎一家はさらに勝山に移転した。津山での生活で頼りにしていた友人が急になくなったことと、勝山に適当な借間が見つかったというので、移転することにしたのだった。

谷崎が勝山についたのは七月七日、それから一か月ちょっと先に終戦を迎える。その短い間に細雪の原稿をコピーさせたり、また荷風との再会があったりしたわけである。



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