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月と狂言師:谷崎潤一郎の能楽趣味


谷崎潤一郎が日本の伝統文化に深い関心を寄せていたことは良く知られているとおりで、中でも能については小説の題材に使ったり、あるいは謡曲の一節をふと文中に忍び込ませたりしているほどであるが、自分でも実際たしなんでいたようである。「月と狂言師」という小文は、そんな谷崎の能楽趣味が彷彿と伺われる作品である。

この随筆とも短編小説ともつかない不思議な読み物は、戦後間もない頃の京都南禅寺を舞台にして、南禅寺の住人と称するグループが狂言師の茂山千五郎一家を南禅寺境内の塔頭の一室に招き、そこで月見がてら狂言の稽古を催した、その模様を情緒たっぷりに描いたものである。

茂山千五郎一家といえば、大蔵流狂言の名門であり、京都を本拠にしている。その茂山家と谷崎との接点になったのは、南禅寺の塔頭に仮住まいをしている上田氏とかいう人で、その人がやはり当時南禅寺境内に住んでいた谷崎のために、茂山千作を招いて狂言の舞台を設定してくれたのであった。舞台といっても、塔頭の一室で、師匠の千五郎とその一族の外、弟子たちが交互に小舞や狂言小唄を披露するというもので、よくある能楽同好会の狂言版というようなものであった。

そこで招かれた谷崎は夫人を伴い歩いて舞台の場所に出かけてみると、そこは池水や座敷の配置が狂言の稽古舞台として適しているばかりか、月を愛でるにも格好の造りになっているのであった。谷崎は池水にせり出した床張りの勾欄にもたれかかりながら、弟子たちの演じる番組を眺めていたが、そのうち千作翁が「弱法師」を、千五郎が「福の神」を、これは谷崎のために特別に舞ってくれた。千作翁はこのとき85歳の老人であったが、年を感じさせないところに谷崎は驚愕している。

番組がひととおり終わったところで、あらかたの弟子たちは帰ってしまったが、谷崎と千五郎一家の外数人の者が残って、月見となった次第だった。十五夜にくっきりとした月を見るというのはなかなか難しいらしく、せいぜい十年に一度あるかないかなどといいながら、谷崎は振る舞われた弁当で一杯やりながら月の出るのを待っていたが、幸運にもその宵の月はくっきりとした姿を現してくれたのだった。

すると千作翁が狂言「月見座頭」のなかの一節を口ずさみだした。「ざわざわと鳴るわの、~、よしの葉のよい女郎が参りて酌を取りたうは候へども、子持のならひとて子を抱いたやれ~、御子抱いたやれ~、殿に隠れてまどろまうとしたれば、窓から月がぎがと差すわの、やれ干せや細布、竿に干せや袖ぼそ、今宵の月はくまない月やよの」

他の者たちも千作翁の後について謡い、「窓から月がぎがと差すわの」あたりから大合唱になった。千作翁が他の小謡を謡いだすと、座の一人が「今宵は八月十五夜、名月にて候程に、をさなき人を伴ひ申し皆々講堂の庭に出でて月をながめばやと存じ候」と、謡曲「三井寺」の一節を謡う。すると一同も後に続けて、「名を名月の今宵とて、~、夕べを急ぐ人心」と合唱する。そうこうするうちに月は次第にかたぶいて、しずしずと舞台の方に向かってせり出してくる感じがする。

誰かが「東遊びの数々に、~」と「羽衣」の一節を謡う、すると一同が「その名も月の宮人は三五夜中の空にまた、~」と続ける。「月は一つ、影は二つ、満潮の夜の車に月を載せて・・・」、「月海上に浮かんでは兎も波を走るか」とさらに続けて合唱しているうちに、月はすでに山の端を離れて池の面が輝きだした。

こうして月が中天に上った頃には、宴たけなわとなった次第で、皆月に浮かれながら様々な余興を披露しだした。天秤棒を担いで「油屋」を演じる者、「がんでん~」といいながら「壬生狂言」を演じる者、バレーのアクロバットもどきに、着物姿で両足を広げ一座を仰天させるものなど、「いろ~な人がかわる~跳び出して来てはありとあらゆる滑稽、猥雑、狼藉の限りを尽くした」。それを見ていた谷崎は大いに感心して、「花に浮かれる人々はしば~見ることがあるけれども、かように月に浮かれる人々は珍しい」というのである。

この文章を読んだ限りでは、谷崎夫妻はもっぱら見たり聞いたりする側で、自分からは芸なり余興なりは演じていないようである。演じているのは弟子たちであり、また師匠の千作翁である。その千作翁のきさくな態度に谷崎はいたく感心したようで、次のように書いている。

「茂山氏の家族は・・・七五三氏千之丞氏に至るまで既に世間に名を知られた一廉の芸人たちであるが、最前から見ていると、親子兄弟が仲が好いばかりでなく、われ~に対しても寸毫も芸人らしい気取がない。かといって、別にお世辞や追従をいうのでもなく、全くわれ~と同じ気分に浸りこんでいるのである」

この夜の茂山家の人々が、一家揃って谷崎のために尽くしてくれたのは、ひとつはこの大文豪に対する尊敬の気持ちからも知れないが、それにとどまらず、千作翁をはじめとした一家の人々の謙虚な姿勢から出ているのであろう。

この一文を読んで、筆者は非常にうらやましい気分になった。謡曲の稽古には何度も出たことがあるが、そこで披露される素謡や仕舞は至極まじめなもので、笑いという要素を期待することはできない。無論楽しいことは楽しいのだが、羽目を外すような楽しさとは違う。ところがこの文章の中で展開されている狂言の稽古は、その羽目をはずしたような楽しさが充溢している。こんな稽古なら、是非参加させてほしいものだ。



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