日本語と日本文化
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谷崎潤一郎の陰翳礼讃


谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」は、筆者が高校生時代の国語の教科書に載っていたから、これが多分筆者の読んだ最初の谷崎作品だった。もとより全文ではなく、その一部を抄出したに過ぎなかったが、その部分と言うのが、日本家屋の特徴を論じたもので、要するに日本の伝統家屋には陰影がつきものだということを論じた部分であった。

筆者がその小文に感心したのは、谷崎が論じる日本家屋の特徴を、筆者が住んでいた家にも見ることが出来たからであった。というのも当時筆者が住んでいた家は、書院造の純日本風の家であって、藁葺の巨大な屋根を持ち、家の周りに縁側を巡らし、外の空気とは、雨戸を取り払えば、障子一枚で隔てられているといった開放的な造りなのであったが、何故か部屋の奥まったところは薄暗い雰囲気になっていて、そこに谷崎が言うような深い陰影が生じているのであったが、普段はあまり気にしない、そういう家の造りの持つ意味について、この文章が考えさせてくれたというわけなのであった。

筆者がとくに心を惹かれたのは床の間について論じた部分だった。谷崎は日本家屋のうちでも床の間こそが最も陰影の深い場所だと言って、落し懸けの後ろや違い棚の下を埋めている闇を指摘し、それを「空気だけがシーンと沈みきっているような、永劫不変の閑寂がその暗がりを領している」と評しているのだが、たしかに筆者の家の床の間にもそんな気配が感じられた。谷崎は更に、床の間の脇についている書院の組子障子について、それは明り取りと言うよりも、「むしろ側面から差してくる外光を一端障子の紙で濾過して、適当に弱める働きをしている」とも書いているが、要するに明り取りの工夫にも陰影の妙を求めようとする日本家屋の奥ゆかしさについて、筆者の目を開かせてくれたのであった。

この文章に興味を抱いた筆者は、早速高校の図書館から「陰影礼賛」全文を収めた書物を借り出して読んだ次第であったが、そこでもまた新たな発見ができて大いに喜んだ次第であった。その発見とは厠に関するもので、谷崎は「日本の厠は実に精神が休まるように出来ている」といって、日本の伝統的な厠を絶賛しているのであった。

谷崎が例として取り上げた厠は、母屋とは別の場所に建てられていて、母屋と渡り廊下でつながっているといったものであったが、筆者の当時の家の厠は、母屋の一角ではあるが、縁側のはずれに位置していて、その点では、家の内部と外部との中間領域といってもよかった。しかしてその厠の内部の造りは谷崎が縷々書いていることとほぼ違いがないのであった。すなわち、床は無論朝顔まで木でできていて、金隠しの向う側には掃出し窓がついていた。そこで筆者はその掃出し窓の向こう側に、谷崎がいうような雨の滴り落ちる音や蟲の鳴く声を、用を足しながらの合間に、しみじみとした雰囲気の中で聞くことが出来るのであった。

さてこのたびは約半世紀ぶりに「陰影礼賛」を読んだわけであったが、その半世紀という日時の介在は、この文章の受け取り方に決定的な影響を及ぼしているのがわかった。というのは、昔読んだときには、谷崎の書いていたことを自分のことに引き寄せて受け取ることが出来たのに、いまでは、そんなことは全くできなくなっているからなのであった。家の造りは西洋風になり、谷崎がいうような陰影は家のなかからなくなってしまった。また便所も機能一点張りになって、谷崎がいうような「精神が休まる」ような作りにはなっていない。今の筆者の家では、狭い空間の中に大小兼用の陶器の便器が据えられていて、筆者はその便器の上に扉の方向を向いて腰掛け、ただ用を済ますだけなのである。とてもそこでは、雨の音を楽しんだり、虫の音を聞いたりする贅沢は味わえない。そんなわけで、今の人の目からすれば、谷崎が日本家屋について書いていることは、歴史的な意味合いしか帯びないのではないか。

しかし、今回「陰影礼賛」を読んで、高校生時代には気が付かなかったことまでわかったような気がした。谷崎は「陰影礼賛」といって、日本の家屋の陰影について論じているばかりか、およそ西洋と比較したうえでの日本文化の特徴というか、その奥ゆかしさについて礼賛しているのである。西洋文化は確かに便利ではあるが、しかし日本を含めた東洋文化には、東洋文化でなければ味わえない様々な利点がある。その利点をことごとく捨てて、西洋かぶれになってしまうのはいかにも芸がない、そういって谷崎は我々日本人が今後も、日本の伝統文化を大事にしていくことの必要を説いているわけなのである。

ただ単に日本文化を保存するにとどまらず、できうれば西洋文化を取り入れる際に、それを日本流にアレンジしたうえで取りいれる、そんなことも必要だろう、と谷崎はいって、次のように書いているほどだ。

「たとへば、もしわれわれがわれわれ独自の物理学を有し、化学を有してゐたならば、それに基づく技術や工業もまた自づから別様の発展をとげ、日用百般の機械でも、薬品でも、工芸品でも、もっとわれわれの国民性に合致するやうな物が生まれてはゐなかったであらうか・・・わたしはかつて"文芸春秋"に万年筆と毛筆との比較を書いたが、仮に万年筆といふものを昔の日本人か支那人が考案したとしたならば、必ず穂先をペンにしないで毛筆にしたであらう」

谷崎自身は毛筆で原稿を書いていたから、こんな発想が出てくるのだろうと思われる。

ところで、「陰翳礼讃」は日本家屋にある闇の存在を強調するあまり、その闇との関連で、漆器や金細工など日本独自の什器類が発達したのだと強調してもいる。漆器などは闇のように暗いところで用いられることを前提にして作られているのであって、それを明るい場所で見たのでは美しさがそがれる。同じことは女性の美しさについてもいえるのであって、日本の女性は暗闇の中で見て美しくなるように、自分を作り上げてきた、そうも谷崎はいうのである。

どういうことかというと、日本の女性は伝統的に暗い室内で暮らしていて、男たちは暗い所でしか女性の肌に接することが出来なかった。そんな場所では、女性の美しさは顔と手先にしか窺い知ることが出来ない。それ故、顔には特別の工夫をこらす必要がある。鉄漿と言うのはそうした必要に答えたものであって、暗いところで女性の顔を見ることから生まれたものなのである。というのも、真っ白い歯をむき出しにした女の顔と言うのは、暗い闇の中では幽霊のように薄気味悪く映るものなのである。

こんなわけだから、日本の女性には顔と手先だけがあればよく、胴体はいらないという極論も出てくる。それは文楽の人形からの連想がそうさせたのであって、たしかに文楽の人形には顔と手先だけがあって胴体がない。「胴や足の先は裾の長い衣装のうちに包まれているので、人形使いが自分たちの手を内部に入れて動きを示せば足りるのであるが、私はこれがもっとも実際に近いのであって、昔の女というものは襟から上と袖口から先だけの存在であり、他は悉く闇に隠れていたものだと思う」

そして、「極端にいえば、彼女たちには殆ど肉体がなかったのだといってよい。私は母の顔と手の外、足だけはぼんやりと覚えているが、胴体については記憶がない」とまで谷崎は言うのであるが、生涯女性の肉体にこだわった谷崎の、女性の肉体に関しての原体験ともいうべきものが、こういう事情だったとは、非常に面白いところである。

ちなみに筆者自身は、母親の身体は、顔や手足に止まらず、胴体についてもよく覚えている。



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