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細雪:谷崎潤一郎の世界


細雪を読んでの最初の印象は、それ以前の谷崎の作品と大分トーンが違うなということだった。谷崎のもっとも谷崎らしさの所以であるところの、あの悪魔的な雰囲気がこの小説には感じられない。もとより大作家の力を入れた作品であるから、結構から文体に至るまで良く書けてはいるが、なにかしら物足りなさを感じる。これが谷崎文学の粋といえるだろうか、という消極的な感想を抱いたわけである。

その辺は谷崎自身も意識していたらしく、読者に対して申し訳ないといった感情を持ってもいたようである。その辺の事情を谷崎は「細雪回顧」という小文の中で、ちらりと触れている。軍部による弾圧が、この小説について当初抱いていた構想に大きな影を落とし、結局は軍部の意向を損なわない程度のおとなしい内容へと変更させたというのだ。つまり谷崎は、時代の圧力に恐怖し筆を曲げたと白状しているのである。

谷崎がこの小説を構想したのは昭和17年、第一回目は翌18年の正月に発表した。その頃はすでに太平洋戦争が進んでいて、戦況はなかなか厳しいものがあった。そんななかで軍部は文化面への干渉を強め、国民の戦意を損なうようなものをかたっぱしから弾圧した。谷崎の「細雪」もこの弾圧に引っ掛かり、「時局にそわぬ」という理由で出版の差し止めを命じられたのである。その際に感じたところのものを、谷崎は次のように書いている。

「ことは単に発表の見込みが立たなくなったと云ふにつきるものではない。文筆家の自由な創作活動が或る権威によって強制的に封じられ、これに対して一言半句の抗議ができないばかりか、これを是認はしないまでも、深くあやしみもしないと云ふ一般の風潮が強く私を圧迫した」(細雪回顧)

しかし谷崎はそうした風潮に逆らうことなく、自分自身も流されていった。そこが消極的とはいえ抵抗の姿勢を崩さなかった荷風散人と違うところである。ともあれ谷崎は、いつの日にか出版する機会もあるやと思い、執筆は続けた。しかし当初の構想をそのまま採用するのは憚られ、おとなしい内容へ改めた。

谷崎が当初抱いた構想と言うのは、「関西の上流中流の人々の生活の実相をありのままにうつさう」というものであり、したがって不倫や不道徳の面を赤裸々に描いてみたいというものだったそうである。しかしそれを正面から書くことは、当時の谷崎にとっては命の危険にかかわることだと思われ、したがって筆を曲げざるを得なかった、そう谷崎は弁解するのだが、筆を曲げたことについては、遺憾なこととはいえ、そう深刻には考えていないようである。谷崎は次のようにあっさりとした言い訳をいうのみなのだ。

「今云ふやうに頽廃的な面が十分に書けず、綺麗ごとで済まさねばならぬやうなところがあったにしても、それは戦争と平和の間に生まれたこの小説に避けがたい運命であったともいえよう」(同)

まるで他人ごとのような言い方である。ともあれこんな事情が働いて「細雪」はそれ以前の谷崎の小説とはかなりトーンの異なるものになった。谷崎自身はそのトーンを「綺麗ごと」といっているが、綺麗ごとなりに良く書けてはいる。関西の上流中流の人々の生活はかなり突っ込んで描かれているし、それらのモデルになった松子夫人の姉妹たちに対する谷崎の思いも十分に盛り込まれているのだろうと推測できる。

クライマックスといえる風水害の場面は、余りにも迫真的に描かれているので、谷崎自身の体験に裏打ちされているのだろうとも推測されたところだが、谷崎自身はその時安全なところにいたので、怖い思いはしていないといっている。当たり前のことだが、これは作家の想像力が発揮された場面なのである。

上述の通りこの作品の誕生には、戦争というものが大きな影を落としているが、作品そのものの中には戦争の影は一切出てこない。戦争の暴力は、風水害と言う自然の威力によって黙示的に表現されるのである。

こんなわけで「細雪」と言う小説は、一人の作家が時代と向き合うなかから生まれてきた、極めて社会的な意味を内在させた作品なのだと言える。



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