日本語と日本文化


芦刈:谷崎潤一郎の世界


谷崎潤一郎の小説「芦刈」は「吉野葛」、「盲目物語」に続いて書かれた作品だが、そのためというのでもなかろうが、この先行する二つの作品を足し合わせたような体裁を呈している。前半部分では「吉野葛」を思わせるような紀行文的なスタイルを用いて古の日本を回顧するというやり方をとり、それに続いて後半部分では、ふと作品世界に紛れ込んできた一老人の口を借りて、盲目物語におけるような女性賛美をするのである。賛美される女性のモデルが、その頃に谷崎がぞっこんであった松子夫人であるのはいうまでもない。

「吉野葛」が謡曲「国栖」を連想させるのに対して、「芦刈」は同名の謡曲を連想させる仕掛けになっている。そのことは、小説の冒頭に、「君なくてあしかりけりと思ふにもいとど難波のうらはすみうき」という、謡曲のテーマとなった歌が置かれていることからも窺われる。しかし「吉野葛」において天武天皇にかかわる伝説が語られることがなかったのと同じく、ここでも芦刈の夫婦愛が語られることはない。語られるのは、淀川の支流水無瀬川の風景であり、そこを舞台に展開された後鳥羽院の物語である。しかしてその舞台も芦刈の舞台であった難波の浦ではなく淀川の中流域、つまり「江口」の舞台だったところである。

その淀川の中流域の一支流水無瀬川のたもとに後鳥羽院が離宮を作った記事が「増鏡」に見える。その御殿は「南に淀川、東に水無瀬川の水をひかへ、この二つの川の交はる一角に拠って何万坪といふ広壮な庭園を擁していたにちがひない。いかさまこれならば伏見から舟でお下りになってそのまま釣殿の勾欄の下へ纜をおつなぎになることも出来、都との往復も自由であるから、ともすれば水無瀬殿にのみ渡らせたまひてといふ増鏡の本文と符号してゐる」

こんなわけでこの小説の前半は、日本の古典を材料にして、谷崎が日頃身に溜めた知見の薀蓄を語り散らすという趣向になっている。そこには小説としての仕掛けは全く内在していないから、読み方によっては面白くないかもしれない。とくに筆者のような関東の人間にとっては、舞台である関西の地理に土地勘がないせいもあって、面白さのうち半分は伝わってこないようになっている。というのもこの小説の面白さの半分は、道行の文章の面白さに支えられているといってよいからである。荷風散人の「日和下駄」が東京人にとって魅力をそそられると同様な機制によって、この小説の中の道行の文章は、関西人の郷愁をかきたてるだろうと思われるのだ。

さて谷崎本人と思しき作中の老人が淀川の中州で一人月見酒をしていると、突然ある老人がどこからともなく現れて谷崎老人の横に座を占め、一献すすめながら昔話を始める。その昔話と言うのが、さる夫人を巡るものであって、語る老人は、父親から聞かされたといって、その夫人の美しさや心根のたぐいまれなありさま、その夫人に対する父親の異常ともいえる愛の形について、諄々として語り続けるのである。その語り方と言うのがまた、「盲目物語」における按摩の語り方に重なり、得も言われず優艶な趣をたたえている、といった具合なのだ。

こうしてみれば、この小説の眼目は後半部分にあるといってよい。谷崎は「盲目物語」で、松子夫人を信長の妹お市の方になぞらえて散々礼賛したのであったが、それでも物足りずにもうひとつ礼賛の文章を書きたくなった。しかしただ礼賛しただけでは小説としてだらしがなくなるから、前半に古典を借りた道行の文を配し、舞台を整えたうえで、按摩ならぬ幽霊に語らせるという方法をとった。幽霊と言ったのは、この物語の老人は小説の最後でふと消えてしまうからである。

盲目の按摩でも幽霊でも、婦人のたぐいまれな美質を語らせることについては不足はない。むしろ余計なことにまぎらわされることがないだけに、婦人の美質を完璧に語ることが出来る。谷崎はそう考えて、松子夫人に対する我が思いのありたけを、幽霊の口を借りて存分に語ったのではないか。

その幽霊が語る夫人と父親との間柄は世にも変ったものであって、父親は一方では夫人に対してプラトニックな愛を貫きながら、他方では夫人の生身に恋焦がれていると言った風なのである。そんな父親のもつれた感情を示すものとして、父親が夫人の乳を吸う場面がある。

「お遊さんが乳が張ってきたといっておしずに乳をすはせたことがござりました・・・あんさんも飲んでごらんとちちくびからしたたりおちてゐるのを茶碗で受けてさしだしますから父はちょっとなめてみてなるほどあまいねといって何げないていに取りつくろってゐましたけれどもお静が何の意味もなく飲ませたものとばかりには思はれませなんだので自づと頬があからんでまゐりまして、その場にゐづらくなりまして口の中が変だ変だといひながら廊下へ立っていきましたらお遊さんはおもしろさうにころころわらふのでござりました」

まあ、なんとなまめかしい文体ではないか。この一文からも読み取れるように、この小説で谷崎は、文体と言うものに最大限の配慮をしている。まずひらがなを多用し、言葉に円みを持たせるようにしている。円みだけではない、よどみのなさというか、流麗さと言うか、和文の持つあの独特のリズムを再現しようともつとめている。それは読点をあまり用いず、文が切れ目なくつながっていくという書き方にもつながる。その結果文章の段落が異常に長くなったりする。こういう文章は現代風の仮名遣いではなく、伝統的な仮名遣いで読むほうが味わいが深まる。

こんなわけでこの小説には、いろんなところで実験の意思が感じられる。


    

  
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