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谷崎潤一郎初期の短編小説


筆者が谷崎潤一郎を初めて読んだのは、まだ高校生の頃だった。「刺青」はじめ短編小説を何本か読んだあと「痴人の愛」を読んだのだが、その濃艶な文体と異様な人間心理の描写に圧倒されながらも、何ともいやな気分に陥り、それ以上読みすすむのを放擲してしまった。この文学はどこかに異常なところがある、それは単にそれ自身が異常であるばかりか、読むものまで異常にしてしまう、こんなものばかり読んでいると、きっと頭がおかしくなってしまうにちがいない。筆者は未発達で青臭い知性を以て、そんな風に考えたのだった。

中年になって分別の定まる頃、再び谷崎潤一郎の世界に挑戦した。今度は抵抗なくすらすらと読み進むことができた。というより筆者はすっかり谷崎の世界の虜になってしまったのである。そんなわけで、中央公論社版の谷崎潤一郎全集をかたっぱしから読み漁った。一篇また一篇と読むごとに、筆者は谷崎の世界の奥深さに圧倒されたのである。

そこで筆者は、何故自分の少年時代には谷崎に嫌悪感を覚えたのか、その理由を考えてみた。結局世間知らずだったというのが結論のようなものだった。自分はまだ経験が浅く、性愛のこともまともに知らないばかりか、この世の中には、サディズムだとかマゾヒズムだとか、性的フェティシズムだとか性同一性障害だとか、したがってゲイとかレスビアンとかいった人々の存在も、決して不思議なことではないのだ、ということがわかっていなかった、それ故、そういった世界を正面からとりあげた谷崎の世界が、少年の自分には理解を超えていたのではないか。そんな風に考えたわけである。

谷崎の世界は無論、上述したような倒錯的な世界にかかわるものばかりではない。「細雪」をはじめとしたリアリズム風の作品世界もある。そうではあるが、やはりその真骨頂と言うべきものは、人間の性的な、あるいは常軌を逸した側面に焦点を当てた作品群だろう。谷崎のもっとも谷崎らしいところは、人間の本質を、異常性を通じてあぶりだすことにある、と筆者は考えるようになった。

そういう意味からすると、谷崎の初期の短編小説群には、谷崎が生涯にわたって展開することになったテーマが、網羅的に出ている、と言うことができるのではないか。

こんな問題意識から、谷崎潤一郎の初期の短編小説をいくつか読みなおしてみた。中公文庫版「潤一郎ラビリンスⅠ 初期短編集」所収の、刺青、麒麟、少年、幇間、飆風、秘密、悪魔、恐怖の諸編である。

「刺青」は実質的に谷崎のデビュー作と言ってよい作品だが、ここで谷崎が描き出したのは、肉体性へのこだわりである。人間というものは、当たり前のこととはいえ、肉体でできている。その当たり前のことを、谷崎は当たり前に描き出したのである。しかし、当たり前が当たり前すぎると当たり前でなくなることがある、それは人間を、心を持っているということを度外視して、ただただ肉体からできているのだということにこだわることから起きる。谷崎は、人間とは肉体以外の何物でもないということを、この作品の中で徹底的に主張しているのである。

それ故、この作品は、女の肉体を描いているにもかかわらず、官能的な雰囲気を持っていない。ウェットなところがいささかもなくて、乾ききっているといっても良いくらいにドライでクールなのである。

彫り物師が若い女の脚を見て、その持ち主が超一流の肉体からできていると直感し、その素晴らしい肉体に刺青をほどこしたいと願う、そして遂にはその願いがかなって、女の肉体には巨大な蜘蛛の刺青が出現する。その過程を描いているに過ぎない。最後に、十六七のうら若い女が、未成年から成熟した女へと変身するのであるが、それは精神性の成熟によってではなく、肉体の変化によってもたらされた結果なのである。つまり少女は別の肉体に生まれ変わることで、真の女になるわけなのだ。

「麒麟」は伝道の旅を続ける孔子の一行が、衛の君主夫人によって誘惑される話である。孔子は誘惑に負けることはないが、かといって衛の夫人を改心させるわけでもない。孔子の精神世界と夫人の肉の世界とはどこまでも並行していて、決して交わることはないのである。こういうことで谷崎は、肉の世界の自立性を語っているようである。

「少年」は、幼い子どもたちの間で形成されるサド・マゾ関係を描いた作品である。主人公の少年たちは、はじめのうちは仲間の少女に対してサディスティックな暴力を加えているが、そのうちその関係が逆転して、少女に暴力を加えられる立場になる。ところがその暴力を、少年は苦痛と感じるのではなく、愉快に感じるのである。つまり、それまでサディスティックな加虐の喜びに耽っていたものが、今度は被虐を喜ぶマゾヒストの境地に転変する。谷崎はそれを、少年の心を舞台に描くことで、サド・マゾのあり方が人間には自然に根差しているのだということを言いたいのかもしれない。

「幇間」は、他人に虐待されることに喜びを感じる道化師の話である。幇間と言うのはもともと、他人に馬鹿にされながら、人様を喜ばすことが商売なのだが、その馬鹿にされるということが、商売の都合ではなく、本当の喜びになってしまった、そんな男の業のようなものを描いたのがこの作品なのである。

「飆風」は男の性欲を描いた作品である。決して浮気はしないと女に約束して旅に出た男が、行く先々で性欲の衝動に苦しむという他愛ない話だ。半年ぶりに東京に戻ってきた男は、真っ先に女のもとにはせ参じ、長い間抑圧してきた性欲を一気に開放するのだが、興奮のあまりに発作を起こし死んでしまう。今でいえば腹上死だ。馬鹿馬鹿しいといえば馬鹿馬鹿しいが、その馬鹿馬鹿しさをまじめくさって描いている、というのがこの作品なのだ。

「秘密」は、女装して街を歩くことに喜びを感じる男の話だ。つまりトランスジェンダーがテーマなのだが、わからぬことに途中からトランスジェンダーのテーマは吹き飛んでしまい、つまらぬ異性愛の物語に終わってしまう。そこのところが中途半端だが、女装するトランスジェンダーをテーマに取り上げたのは、恐らく谷崎が最初ではないか。

「悪魔」は、従姉から漂ってくる性的な魅力に心を惑わせられる男を描いた作品である。男は従姉に対する愛を実現することができない。そのかわりにその代替行為に走る。従姉が鼻を噛んだハンカチを秘かに持ち歩き、機会をみてはそれを舐めるのである。鼻汁の何とも言えない嫌なにおいが、男の性欲をますます掻き立てる。鼻汁を舐めることはセックスの代替行為なのであり、マスターベーションのようなけちなものではない。そんな風に描かれているわけである。

「恐怖」は列車にのるとパニックになるという、一種の強迫神経症のような症状を描いている。谷崎の手にかかると、たんなる脅迫神経症も、人間の心の不安を表す極限的な状況として迫ってくる。

こんな具合に見てくると、谷崎が初期の短編小説群を通じて、人間の肉体性や性欲、そして心の不安と言ったものに、こだわっていたことがわかる。



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